「苦行ですね」
階段を上りながら字ャっ部の貴公子・水口楓(自称)が言った。
曽良三々の目は既に虚ろだ。
「小三の時の耐寒遠足思い出した……」
「小三の? えらくまた古い記憶を」
古いってほどじゃない! 曽良三々、珍しく僕を睨み付ける。
すみません、と肩を竦めると不意に興味を失ったように遠い目をする。
「猛吹雪の中、山登りさせられた。耐寒なんてもんじゃない。みんな手足の感覚なくして、クラスの半分が凍傷になった。現代っ子の私も、生まれて初めてしもやけをつくった」
「はぁ」
そりゃまた過酷な。気の毒な。
「みんな一言も喋らず黙々と歩いて、ようやく弁当の時間になったんだ。とにかく食物を摂取して体内で燃焼させないと凍える。体温と血圧がどんどん低下して生命が危ない──そんな切実な気分」
「はぁ」
今だったら早々に中止になってただろうな、そんな遠足。
「でも弁当開けたら中身、全部凍ってた……」
「グッ!」
水口楓がヘンな声をあげる。笑うのを我慢したのか、それとも声を詰まらせたのか、微妙なところだ。
曽良三々、そのままブツブツ言い出した。何を喋ってるか分からない。寝言みたいにひたすらボソボソ語ってる。
ド暗い空気に押し潰されるように周囲がみんな押し黙る。
最悪のテンションだ。全然楽しくない。いや、それより何よりどうして僕がこの人たちと行動を共にしなきゃならないのか!
メン高のシステムには疑問を抱かずにはいられない。
各学年ごとではなく、1~3年までの各クラスが一セットとなる。
つまり1─1、2─1、3─1が一緒に遠足に行くのだ。
宮野と島田相手に「珍しいね」なんて言ってたら、最悪なことに字ャっ部の面々と同じグループになった。
「コイツ等、みんな1組かよ! クソー!」
しかも知らん振りを決め込もうとする僕の周囲にこの作務衣集団、ベッタリ張り付いてくるのだ。更に時々交わす会話がこれでは……。
おかげで宮野と島田をはじめとして、みんなが離れていくのを僕はただ見守るしかなかった。
ぼ、僕が嫌われてるわけじゃない、そう己に言い聞かせながら。これから先(一年間)、常に行事はこの人たちと同じグループなのか、嫌だな……。
「みなさん、大丈夫ですか?」
遅れがちな作務衣集団を振り返る。曽良三々、竜也、水口楓、それからトリ先生──みんなゼェゼェ言ってるのは、文化部の宿命か?
「や、山登りと言ったって……ハァハァ。舗装された階段を黙々と登っていくだけ。楽しくも何ともありません。ハァハァ」
息も絶え絶えに字ャっ部の貴公子が言った。
曽良兄弟とトリ先生もうんうんと頷く。不本意ながら僕も首を大きく縦に振っていた。これじゃ座って授業受けてる方がはるかに楽だ。
何でも頂上まで三千段の石段が、ただひたすらに続くらしい。
「階段登って、何ぞ達成感や」
「いや、それは……」
僕も内心同意見なだけに、曽良三々を窘められない。
「もう帰ろう」ここで字ャっ部のリーダー、そう決断した。「つまらない 疲れるだけだ 遠足は──曽良三々」
ここにきて一句詠んだぞ、この人。
「山なんて必死になって登ったところで、結局降りなきゃいけない。同じ距離を、だ!」
何を得る? 曽良三々はそう言って僕の顔を見た。
「いや、僕に言われても……。色々あるでしょ。つまり……やり遂げた感とか、そういうやつ」
「知らん。バカが」
プイッと余所を向いてしまう。理不尽だ。何で僕が罵られなきゃいけないんだよ。
「ぴゅーっ、ぴゅーっ……」
今度は背後でおかしな呼吸音。トリ先生だ。この人、息も絶え絶えだ。一番、体力的にキツイらしい。
「トリ先生ってお幾つなんですか?」
「カーーッ!」
「……そうですか」
白々しく無視された。
この人が何歳なのかはまったく見当もつかない。先生なんだから僕よりずっと年上の筈だけど、ともすれば危険な幼児のようにも見えるし。へたすりゃお母さんと変わらないようにも見える。
聞いても答えてくれる気はないんだろうな。そもそも悲しいことにトリ先生、僕の話をあまり聞いてくれてない。認めるのは悲しいが、副部長たちに比べて僕だけ扱いが雑な気が?
「暑い……」
ハァハァ息切らしてるうちに眼鏡が熱気で曇ってきた。おぉ、前が見えん。
「ハァハァ」
フラフラして段につまづく。
「ギャッ!」
二段ほど滑り落ちて、それから前のめりにこけた。アゴ打った。
「ア痛ッ!」
「何をやっておるのじゃ」
シラッとした目でトリ先生に見下ろされ、一瞬ゾクッと喜びが走った僕。ヘンタイでごめんなさい。
「ハァ……こんな所を登ったり降りたり。カゴの中で一生、滑車を回しているハムスターと変わりません」
水口楓的不満の言葉。
「ん?」
ここで僕はようやく違和感に気付いた。何だ? 何かが足りない。振り返る。トリ先生、黒作務衣、緑作務衣、あとピンク。
「……一人足りない」
例えようもない嫌な予感(とアゴの痛み)に立ち止まる僕。
「オーイ!」
そんな僕に降り注ぐ絶叫。
「オーイ、何やってんだ。早く来いよ!」
元気な声と共に階段を一段飛ばしで駆け下りて……いや、跳ね降りてくる元気な姿──真っ赤。赤すぎて、眩しい。
字ャっ部の鼻つまみ者・鴨はじめだった。こっちに向かってすごい勢いで手を振っている。初めて見る満面の笑顔に、僕は引いた。この温度差は何だ?
「ウザい」
竜也がボソッと辛辣なセリフを吐く。
ここに一人だけ、遠足でワクワクしているヤンキーがいる。
「遠足とかになると、張り切ってやって来るヤンキーっているよねぇ」
なるほど、それか。何でも朝一番に学校に来たらしい、この赤作務衣。門が開くまでウズウズしながら待ってたらしい。
遅刻寸前の他の面々とは大違い。曽良三々なんて完全遅刻で、みんなで出発を遅らせて彼の到着を待ったくらいだ(迷惑だ)。
「どうした、タロー。アゴからすごい血が出てんぞ」
「いや、別に……」
まぁいいか、アハハハ。彼は僕の出血を笑い飛ばした。
「頂上で食べる弁当が楽しみだ! 自由時間は何して遊ぶ? 俺様、トランプ持ってきてやったぞ。アハハハ!」
「はぁ」
遠足でトランプですか……。
鴨はじめ、やけに陽気だ。みんなの顔を覗き込んでは肩を叩き、ガハガハ笑う。
「臭ッ!」竜也が叫んだ。「鴨先輩、口臭ッ!」
面と向かって言われ普通の高校生ならショックで眠れないところだが、鴨はじめは違った。豪快に笑い飛ばす。
「競争だぞ、みんなぁ!」
一人で叫んで、一人で階段駆け上がって行ってしまった。
次第に赤い姿が小さくなっていったところで果たして頂上に着いたのか、鴨は立ち止まった。
「俺様はぁ~! トリちゃんがぁ~! ゲボ~ッ!」
「え、何?」
ゲボゲボ~!
悲惨な音が聞こえてきて、鴨の周囲でけたたましい悲鳴が上がるのが分かった。
「鴨くんっ……!」
引率の先生の金切り声。
「ゲボッ! ゲボ~ッ!」
階段てっぺんで撒き散らされた……。
そいつが小雨のようにあたりに飛び散り、降り注いだのだ。みんな必死で逃げ回る。最悪の展開だ。
──遠足が嬉しくて食べ過ぎちゃった~。
後で鴨はじめは泣いた。
「ウブククッ……クッ」
こういうポイントでウケる不気味君。笑いながら携帯カメラのシャッターを切る。
「アイツら、書道部だ!」
「吐いた奴、書道部だ!」
誰かが叫んだ。すぐさま曽良三々が反応して憤慨する。
「何で書道部だっておかしなまとめ方をするんだ。3─1の鴨だって言えよ。書道部は 吐き集団じゃ ないのです──曽良三々」
そりゃ、そんなお揃いの作務衣着てたら一括りだわ。無理ないわ。みんなそう言うわ。
弁当の時間でもないのに休憩と称した足止めを喰った我々。鴨を休ませる為だ。
先生たちがイライラした感じで階段に水まいてる。コトが管理事務局か何かに明るみになれば、先生としてもマズイのだろう。ホント、気の毒な立場だ。
手持ち無沙汰でみんな、何となく弁当を広げだす。
「すっごい孤独……」
鴨はじめを捕獲して、字ャっ部だけでポソポソ弁当を広げる。みんな遠巻きに僕達を見てるのが分かる。聞こえよがしに文句言ってくる。「ゲロ部」とか言ってるのが分かるし。
「つい嬉しくて食べすぎちゃった……」
吐いた直後はショックと恥ずかしさで涙目になっていた鴨だが、吐くもの吐くとスッキリしたとか勝手なこと言ってるし。
「な、なぁ、そっち入れてくれよ」
宮野と島田に話しかけても奴等、白々しく僕を無視した。
「作務衣も着てないのに、既に僕も字ャっ部の一員として定着してるんだ……」
そう悟った悲しい日。
その作務衣集団は弁当食べ終わってあんまり暇なもんで、鴨の持って来たトランプしてる。のんきなものだ。
七並べでパスをした水口楓がズズ……とお茶をすすった。「ホゥ」と息をついて、ゆっくり流れる雲を見上げる。
「山を登ったり降りたり。登ったり降りたり。無意味な行動を繰り返す。まるで人間の営みそのものです。今日を通じて人間も大自然の小さな一部なのだと気付きました」
すごい結論持って来たな、この人。
するとトリ先生が突然、対抗意識を燃やして立ち上がった。
「ワシが総理になったあかつきには、酒税をガンガンあげてやろうと思います!」
有権者からすごい反発喰らいそうな演説を始めた。
「ああ……」
僕は頭を抱えた。どっと疲れが。何なんだ、コイツら。
心静かに書に打ち込みたくなってきた。よし、帰って筆をとろう。今月の課題『孤独死』を何枚も練習しよう。
【6月・前編につづく】