曽良三々が、とんでもないブチ切れ方をした。
それは7月1日──汗ダラダラのすっかり夏日の10時半。2時間目が終わっての休み時間。
次の授業は体育なので更衣室に向かう僕の前に、例によって重役出勤の曽良三々が現れたのだ。
次の授業は体育なので更衣室に向かう僕の前に、例によって重役出勤の曽良三々が現れたのだ。
切実な感じで顔を顰めて「暑いよ」と訴えてくる。
「そりゃ、夏ですからね」
朝から来りゃ、もうちょっと陽射しも弱いだろが。
僕たちは歩調を合わせ、歩き出す。
一緒にいたいわけじゃない(むしろ、逆)。
男子更衣室は3年の校舎側にあるのだから仕方ない。周りの生徒たちが「うわ」とか言って僕たちの為に道を空けてくれる。その中を曽良三々は悠々と通っていった。
──僕、もしかしてこの黒作務衣のお付きと思われてる?
そう悟ってゾッとした。自然な感じを装って、彼から離れようとした時だ。不意に曽良三々が立ち止まった。半分居眠りしながら歩いてたその背に、瞬時に殺気がみなぎる。
「どうしたんですか?」
視線の向こうは──これもよく目立つ赤作務衣。鴨はじめだ。
そこで曽良三々、突然ブチ切れた。
「~~~!!!□△×××~!!~~~ィィィ!!!」
判読不能な叫びを発し、赤作務衣にバッと飛び掛ったのだ。
「うわっ、曽良? やめッ……ギャギャーーーッッ!」
突然のバトル展開に、周りの生徒たちも思い思いの悲鳴をあげる。
「ちょっと、何やってんですか! 副部長、やめてください!」
「~~~!!!□△×××~!!~~~リィィィ!!!」
「ギャギャーーーーーッッッ!」
ダメだ、聞いてないし。
遠足の一件で曽良三々は、鴨に対して相当お怒りだ。
先月行った朝練には来ないし、勉強会にも参加しない。あげく、奴のテストの成績はぶっちぎりで学年最下位だったらしい。
最近は鴨、黒作務衣の怒りを恐れて部室に来ることも少なくなっていた。
「~~~!!!□△×××~!!~~~リィィィ!!!」
「ギャギャーーーーーッッッ!」
この二人って、確か同じクラスの筈。毎日のようにこんな争いしてるんだろうか?
ものすごい声をあげて曽良三々は鴨はじめの赤作務衣を剥ぎ取った。
「ギャッ!」
有無を言わせずパンツを破る。
「や、やめろぉ……」
靴下だけというイヤらしい姿にさせられた鴨はじめ、顔を真っ赤にしてその場にうずくまる。
周囲の女の子が「ヘンタイ」と、なぜか鴨を批判した。中には罵りながら写メ撮ってる子もいる。酷だ……。
「オォォ~~~!!!□△×××~!!~~~ィィィ!!!」
しかしそれだけでは曽良三々の怒りは収まらなかった。真っ裸の鴨はじめの足首にロープをかけて、奴をポーンと窓から放り投げたのだ。
──コレが噂の逆さ吊り?
3階窓から全裸(靴下のみ)のヤンキーがプランプラン逆さ吊りされてるものだから、運動場からの悲鳴もすごい。
「たすけてっ、だずげでーっ!」
失神できない鴨も憐れだ。
曽良三々「フン」と鼻を鳴らすと、満足したかのように行ってしまった。
「え、あの、ちょっと……」
先生(或いは警察)が来る前に鴨を引き上げ、泣きじゃくる奴を慰めたのはこの僕だ。
「2回目だ……。吊るされたの、2回目だ……」
そ、そうなんだ……。
「辛い目に合いましたね、鴨先輩。ほら、ジャージ貸しますから早く来てください。てか、早いとこ謝ったらどうです?」
これは慰めじゃない。忠告だ。曽良三々を敵に回す愚を冒す(しかもワザととしか思えない)コイツは、本物のバカだと思う。
「クソッ……クッ……!」
それでも強気の鴨はじめ、涙を拭うと僕のジャージを着て行ってしまった。
また一つ、伝説が生まれたな……。
これは鴨はじめ、全裸逆さ吊り事件として語り継がれていくことだろう。
奴の背を見送りながら、僕は全然違う事を考えていた。
さっき副部長に尋ねりゃ良かったな。今日は竜也が来ていない。欠席らしい。病気かな? それとも──。
「プールが嫌でサボったか? ズルイ……」
むしろサボりたいのは僕の方なのに。
そう、先週からプールの授業が始まったのだ。大概の奴は喜んでるけど、僕の憂鬱はいや増した。そう、お察しの通り僕はカナヅチ。
「夏なんて大嫌い……」
どこも具合の悪い所はないのだが、体調不良を理由にできれば見学したいとジャージを持ち歩いていたけれど、それも鴨に渡してしまった以上は覚悟を決めてプールに入らないといけない。
ボーッと虚ろになってくる。
着替えて準備運動してプールに来るまでずっと、トリ先生が体操服とブルマー姿で水と戯れる様を想像してた。
「何か最近、妄想が趣味になってるかも……」
……末期だな、自分。
「うわー、プールだ! プールだ!」
水を前に、張り切る島田が疎ましい。
「夏なんてキライ。プールなんて大キライ……」
準備運動しながら水面をじっと見つめる僕。周りの奴らがちょっと離れて、気の毒そうな目で僕を見てるのが分かる。
「ちょっと、原田くん。アレって?」
そんな僕の背をつついた島田。
空気読まない奴だな。アレ、何か様子が変だ。素直な性格の彼の目には既に怯えの色が走っている。反射的にその方向を見た僕。何? 幻か?
そこには体操服とブルマー、左手袋と軍用ブーツという例の出で立ちをした女が立っていたのだ。
「うわっ」
「何しに来た、あの人?」
周囲でどよめきが起こる。
トリ先生は僕に気付く様子もなく、独特の歩調でヒョコヒョコとプールサイドを練り歩いていた。
かなり変質者っぽい彼女の様子に、みんな興味津々だ。僕一人、何だかいたたまれない気分になった。
そうするうちにトリ先生、うちのクラスで一番体格のいい男子の前で立ち止まった。
「ホゥ。フムフム……」
不躾な視線を彼に這わせ、それからあらためてそのお腹をプニプニつまんだ。
「イイ!」とか言ってる。何がイイんだ?
「どれ、ワシの養子にならぬか?」
トリ先生……デブ専だったんですか? 腹肉触ってる時のこの笑顔! そうか、この人、デブ専だったんだ……。ああ、どうりで貧弱眼鏡の僕が見向きもされないわけだよ。
「原田くん、あの人のどこがいいの?」
島田が僕にボソッと言った。
「いや、あの……」
そう言われれば、僕としてもやり切れない思いだよ、まったく。
地獄のプールをやり過ごし(あんまり記憶がない)、気付けば放課後。
この時間になると、いそいそと部室に向かう僕。頭の中では妄想大爆発だ。最近友達が少なくなってきてるから、空想でもしないと間がもたないわけだ。
「トリ先生には、やっぱりバラが似合うかなぁ」
(ある意味)華やかだし(ある意味)情熱的だし、(ある意味)強くて(ある意味)美しくて(ある意味)トゲがあって……素敵な女性だもん。ある意味って付きまくるのが疑惑の温床だが。
「やっぱバラにしときゃ良かったかな。色は? うーん……赤は違うよな」
うっとり目を閉じて呟いた時だ。
廊下に突然、例のブルマー姿が現れた。
「寄るなッ! ギャオオーーーッ!」
両足踏み締めて、火噴くような格好してる。あれは彼女の威嚇のポーズ。
「トリちゃん、待ってくれ!」
そんな彼女を追って現れたのはヘンなジャージ男──あ、僕のジャージだ。
あれは鴨はじめ。また一段と激しい感じだなと思ったら両手に真っ赤なバラの花束を抱えちゃってる。ここは学校の廊下だ。周囲のみんなは明かに引いている。
「受け取れって言ってんだろ、トリちゃん!」
恋に不器用な鴨はじめ、やたら高圧的にバラをトリ先生に押し付ける。
「イヤじゃ! 何じゃ、コイツ。気持ち悪ッ!」
立ち直れないほど直球の言葉をぶつけられても、さすが鴨はじめ。怯む気配はない。
「コレが俺様の気持ちだよッ!」
鴨はじめ、バラを宙に放り投げる。まるで映画のように、赤い花びらや茎がトリ先生に降り注いだ。
「キシャーーーッ! 痛ッ! 痛たッ!」
トリ先生、赤の中で暴れてる。トゲが当たるたびに大きな目から涙がピュッと飛び出してる。
「イデッ! イデデッ!」
なんとなく(どちらともなく)気の毒な光景だ。
「もう一回、逆さに吊るされろ!」
怒鳴られると鴨はじめ、頬を赤らめ走り去ってしまった。
「何ですか、あの人は。気持ちの悪い」
辛辣なセリフと共に、このタイミングで現れたのが水口楓だ。バラの花びら踏んづけて僕を見やる。
「プレゼントですか? バラって、また古臭い。馬鹿がたまに頭を使うから、結局こうやって大コケするんですよ。ささ、部活に行きましょう」
「は、はい」
頷く僕の笑顔も引き攣っていた。
良かった。バラにしなくて……。良かった。同じ「バ」ならバームクーヘンにしようって思って。自分でもよく分からん発想だけど、でも結果的に良かった。
「き、近所に新しいお店がオープンしたんでお土産に買ってきました。はい、バームクーヘン。部室でみんなで食べましょ、トリ先生」
「ム!」
トリ先生、ヨダレ垂らしてニマッと笑った。よし、ひとまず僕の勝ち。
早速書道室で食べながら、曽良三々と水口楓、トリ先生と僕はバームクーヘンの焼き具合や甘さの加減について激論を戦わせていた。みんななかなか好みがうるさい。
「それはそうと、曽良君の今日の遅刻の言い訳は素敵でした。思わずメモしちゃいましたよ」
水口楓、持参のティーバッグで紅茶いれてる。
「何て言ったんですか?」
あんまり聞きたくはないけど、気にはなるし。
「3時間目の最初にノコノコやってきて、そしてこう仰いました」
電車に乗ってたら前の席にすごくボンヤリしたアホな小坊主みたいな男子が座っていて。そいつが目的の駅でちゃんと降りられるかなと心配になって見守ってたんだ。まぁ、ソイツは何食わぬ顔して次の駅で降りていって……で、気付いたら自分が降り損ねていたと。仕方ないから次の駅まで行く羽目になったんだ。
「その話 言い訳じゃない 実話だよ──曽良三々」
実話だったらそれはそれでアンタの脳味噌を疑うぞ? あんたがアホな小坊主だよ。
バームクーヘンの皿を舐めながらも曽良三々、少々浮かぬ顔だ。俳句(?)にいつものキレがない。
「最近、迷惑メール多くて」
なんて言い出した。ちょっと怒ってる?
「ほぼ迷惑メール。あとは弟からの。それだけ……それだけなんだ」
悲しい告白。うわ、友達いない人、ここにもいた。
「フィルタかけたらいいじゃないですか。バンバン引っかかりますよ」
「ふぃるた? 自分で?」
「……簡単ですから。ほら」
仕方ないのでやってあげた。この人、全然スマホを使いこなしてない。完全に宝の持ち腐れだ。
「ところで原田君、夏休みの予定は?」水口楓、紅茶のおかわりを曽良三々に差し出す。「書道部の合宿にはもちろん参加しますよね」
「2学期には文化祭もあるからな。いい作品を作ろう」
やけにキリッとした表情で曽良三々も僕を見る。
アクビと一緒に溜め息でた。
「ハァ、夏休みの予定? 予備校に決まってるでしょうが! 僕は行きませんよ、部活の合宿なんて」
これまでのパターンからして、どうせロクな集まりじゃないし。
「では原田タロー参加、と」
「楽しみだ」
「なっ……」
何を言っても無駄な人ってこの世にいるけど、この人たちがまさにそうだ。無視無視。まともに相手なんてしてられない。よし、話題を変えよう。
「……今日は竜也は休みですか?」
いつも黒作務衣のそばでニタニタしているピンクの姿がないと、それはそれで調子が狂う。軽く言ったつもりが、曽良三々の表情は翳った。
「弟は原因不明の高熱で、今日は病欠」
「原因不明? 何ですか、それ」
「うん。プールが、プールが……ってうわ言言ってる」
「それ、プール熱ですよ!」
曽良三々、じっとこちらを見る。
「プール熱って結局、何?」
結局、何? って言われた。
「いや、あの……つまり、プールに入ったら熱が出るんじゃないですか。アレ?」
え? 結局何だろう?
助けを求めるようにトリ先生を見ても、彼女はバームクーヘンを一枚ずつ剥がして食べることに夢中になっていて、こちらの話など聞いちゃいない。
水口楓が肩を竦める。
「眼鏡のくせにそんなことも知らないとは」
「す、すみません」
眼鏡のくせにとか言うな!
水口楓・談。プール熱とは──。
咽頭結膜熱。アデノウイルスによる感染症である。プールを通じて感染しやすいことから『プール熱』とも言われる。感染後4~5日の潜伏期間を経て、突然38~40度の高熱が4~7日続く。指定伝染病であり、症状が治まっても2日間は登校してはいけない。
──ということだ。
何、この知識の深さは? 詳しッ!
曽良三々は眉間に皺を寄せてフムフムと頷いている。
「あでのういるす。うん、多分そうだと思った」
ホントかよ。
プールに入ったら熱が出るとかじゃなかったんだな。
「何せ様子がおかしいんだ。このところボイスチェンジゃー使ってイタ電ばっかりして」
「そ、それはまた本格的なアイテムを」
え、まさか……?
「高熱に浮かされてはバチが当たった、バチが当たった……って言い続けて」
まさか僕んとこにかかってきたあの電話って……!
「ザマァミロ! モゴモゴ。アイツ、バチが当たったんだ!」
このタイミングでトリ先生も激怒する。
何でも竜也、先日のトリ先生書類送検事件の土下座写真を撮ってたらしい。毎日嫌がらせ的にそれを見てはニタニタしていたわけだ。「ブザマだね~」と言って。そりゃトリ先生だって怒るわ。
そこに曽良三々も加わった。
「僕の下着、勝手に出して穿いてたバチが当たったのかも」
「下着を?」
怖ッ! あんたんとこの弟、怖ッ!
「でもプール熱だったら、納得。霊に取り憑かれたんだよ。昔から、水は人の思念を運ぶっていうし。昔住んでたマンション、お風呂場や洗面所でよく知らない人見たもん」
あ、あんたも怖ッ! それに曽良三々、根本的にプール熱を理解してないみたいだ。
何で霊が? いや、まぁ元々取り憑かれたようなとこあったからな、あの不気味君。そう思うと不思議に納得できる。
「ところで今月の課題は?」
「課題? 何だっけ。トリちゃん、まだ決めてないよね」
「あ、まだじゃ」
競書の課題は毎月トリ先生が考えることになっている。「採用するかどうかは私の裁量次第」と影の権力者は言うが。
「あの、副部長? 今更ですけど疑問が。兄は三々なのに、何で弟の名前は竜也なんですか? 急に普通ですよね。あ、バームクーヘンもう少し切ります?」
「うん、食べる。三々で 失敗したから 普通にした──曽良三々」
そ、そうなんだ。失敗なんだ。
「そう。私は失敗だったらしい」
例によっておやつ食べながらグダグダ喋ってたところに、突然ガラリと扉が開いた。僕のジャージを着た鴨はじめが立ち尽くし、ハァハァ言いながら黒作務衣を睨み付けている。
懲りない奴だな、また吊るされるぞ?
誰もがそう思っている。鴨はじめ本人もそう考えたらしく、睨む視線は徐々に曽良三々から離れて……何でだろ。僕の方へやってきた。
「キ、キサマに対決を申し込む!」
「は?」
「いいな、勝った方がトリちゃんに相応しい男ということだ!」
「はい?」
ちょっと、何言ってんの? 問い返す間もなく鴨はじめ、足音荒く部室から出て行った。
キサマら、絶対許さんとか逆恨み的なことブツブツ言ってる。曽良三々個人に向けられる怒りの矛先を、なぜか僕たち一括りに受けてるっぽい。理不尽だ。
「ワシに相応しいとはどういう意味じゃ?」
トリ先生が珍しいくらい不快そうな表情を作った。何、この展開? 僕はポカーンと口開けて、奴を見送るだけだった。
【7月・後編につづく】