チラリ。横目で見やる。
「ゼーッ。ハァーッ。ゼーッ。ハァーッ」
すごい呼吸音。
何でだろ。みんなの荷物持ってゼェゼェ言ってる鴨はじめ。
他の面々──1年の竜也ですら手ぶらでラクチンそうにしているのに。
後にプール以上にトラウマになったという、運命の合宿初日のこと。
リゾートっぽい格好をしてくるかなって……ちょっとだけ期待したけど、奴等、いつもと変わらずの作務衣姿で現れた。トリ先生は期待通りのブルマー姿。
離島に向かう高速船に乗り込んだのはついさっきの事だ。
完全に我が字ャっ部の貸切状態である。目的のペンションのある観光用の島はすぐそこに見えていた。
僕は自分の荷物は自分で持ってる。2泊3日の予定だから小さなカバン一つだし。
「ズェーーーッ。ハァーーーッ。ズェェーーーッ」
両肩、両腕に抱えきれないくらい大量の荷物に埋もれた鴨があまりに気の毒に見える。
──ダメだ。手伝っちゃいけない!
あの荷物を持った時点で、僕も自動的に字ャっ部の主従関係の従の部分に組み込まれてしまう。それは確信だった。
僕は敢えて目を逸らし、景色にわざとらしく歓声をあげる。
海面を快調に飛ばす高速船。顔面を打つ風は熱風だけど、それでも波の音と匂いが心地いい。
「皆さん、あそこの島の形……ほら、何かに似てませんか? ヒントは書道で使う道具ですよ。ぶんち……アレ、みなさん?」
すごく空しい。
字ャっ部の面々、デッキに姿を現しゃしない。クーラーの効いた部屋の中で、みんな俯いて何かしてる。
「これだから文系ヤロー共は」
誘ったって来やしないだろう。僕は仕方なく部屋に入っていった。
「修学旅行の行き先希望を出すの、忘れてた」
「あれは夏休み前に提出でしたよ。休み明けに投票で行き先を決めるんですから」
曽良三々と水口楓の会話。
この場合、修学旅行ってのは後輩たちのものではない。この人たち、自分達の話で盛り上がっているのだ。
どこまでも悠長な学校だな。3年の秋に修学旅行か? 普通、2年のうちに行っとくもんだろうが。受験を何だと思ってるんだよ。
……アレ、何だろ? 僕、嫌な予感がする。
「いやいや、大丈夫。気をつける」
こいつらの修学旅行ネタで振り回されてたまるかよ。
「どうしようかな。希望なんだからどこでもいいよな。海外とか」
既に提出期限を過ぎた用紙を前にウキウキしてる曽良三々。不覚にもちょっとカ
ワイイとか思ってしまった。
「海外って、やっぱり中国ですか? 書の本場ですもんね」
「はぁ?」
黒作務衣、キョトンとしてる。
「曽良三々 憧れの国・バチカン市国──曽良三々」
「へぇ……」
その憧れがどこから来るのかよく分からないけど。
「でも無理だろうな。さすがにバチカンはなぁ。遠いもん。現実的に北海道とか沖縄とか書いとくかな」
「ボクは信州って希望を出しましたよ。高原の空気で色々清めたいものがあって」
水口楓──あんた、どんだけ汚れてんだよ。
「お、俺様は……」鴨はじめが口を開きかける。「俺様は大阪のゆーえすじ……」
「アーッ! 揺れがヒドイねぇ」
赤作務衣の言葉を遮るように、竜也が声を張り上げる。わざとか? 鴨はじめ、一瞬ムッとしたように口ごもるも直ぐに気を取り直す。
「俺様はゆーえす……」
「揺れる揺れる~! ゲロっちゃう~!」
アハハハとすごい声で笑う竜也。
ワザとだ。ワザと鴨の邪魔をしてるんだ、こいつ。何でこんな嫌がらせを? 最早これはイジメなのか?
ゴメンナサイ、鴨先輩。でも僕、関わりたくないです。ヘタに庇って次のターゲットになるのもゴメンです。
「ぼ、僕のいとこは私立でロンドン・ローマ・パリ8日間の旅なんて、とんでもなく羨ましい修学旅行に行ってましたよ。僕にもお土産くれました。凱旋門の絵描いた鍋敷き」
正直、持て余してるんだけど。その鍋敷き。
「うちも私立ですからね。親の負担をものともしないつもりなら、ヨーロッパだって行けるかもしれませんね」
水口楓の言葉に、曽良三々が「おぉ……!」と目を細める。それから用紙に大きく『バチカン市国か、月』と書いた。
「………………」
僕は見ないフリした。この人、分かんねぇ。天然なのか電波なのか、全く分かんねぇ。
「楽しそうだねー、タローくん」
竜也が僕の顔を覗き込む。
「そ、そんなことない」
ちょっとでも楽しそうに見えているなら僕としては不本意なこと、この上ない。
「今の心境を例えたらこうだよ。無理矢理ホラー映画に連れて行かれて、上映直前って気分。こんなの見たくないし、すごく嫌でビクゾクしてるのに、でもちょっとだけワクワクしてる自分も感じてる、みたいな」
「とことんMですね、原田君」
水口楓がにこっと笑った。
「オイ! そんなことよりコッチ。大変じゃ!」
一人だけポツンと離れて、無言で海を見ていたトリ先生が突然大声をあげる。
「島が消えた! 島がどこにもナイ!」
何言ってるんですか、トリ先生。
デッキに出た僕も、そこで呆然とする。
海の景色が完全に変わっていることに気付いたのだ。さっきまで目の前に存在していた島の影も見えない。目的地を完全に見失ってしまっている!
そこで最悪なことに気付く。高速船を操縦していた漁師がウトウトしているではないか。首がカックンカックン揺れている。完全に居眠り運転だ。
「漁師だけに船を漕ぐ……ぷっ!」
水口楓の最悪なオヤジギャグが炸裂した。
「ぼ、僕たち、漂流してますか……?」
「ぽい」
ものすごく簡単に曽良三々が頷いた。そんなことより気持ち悪くて……とか言い出した。
「え? 酔ったんですか。ちょっと、こんな時に……我慢ですよ! おじさん、起きて! 起きてくださいって!」
僕はもうパニくっていた。気持ち良さそうにスヤスヤ寝てる漁師。状況を読まない曽良三々は突然、青い顔して「ムリっ!」とか言い出すし。
「おじさん、起きて! え? ムリって何が?」
黒作務衣は船べりから顔を突き出すと「げぽーーーっ」と吐き出した。ドバドバ出してる。
「だ、大丈夫ですか?」
背をさするたびにものすごい勢いで吐瀉物が海に呑まれる。
「げぽーーーっ」
この人たち、またゲロネタかよ。ホント、勘弁してくださいよ。
「うっ……」
反射的に僕も口元を押さえた。こ、こみあげてくるモノが……。
「ゲポッ」
軽く吐いた時だ。信じられないことに曽良三々、船べりの手すりをつかむと上半身を宙に乗り出した。
「脅威のゲロ飛ばしーっ! ゲポーーーッ!」
遠くまで吐瀉物を飛ばし、何だか誇らしげだ。
「何やってんですか! 小学生ですか、あんたは!」
言いながら僕も彼の体勢を倣う。海面に身を乗り出す。いや、違う。甲板を汚してはならないという僕なりの配慮だ。
「ゲポゲポっ」
比較的、おとなしめに吐いた。背後から、みんなの冷めた視線を感じて、何だかいたたまれない気分。
「ゲポッ」
控えめに吐いた拍子に眼鏡が落ちる。
「あっ、僕の眼鏡!」
手を伸ばした瞬間、グラリとバランスを崩した。一瞬の無重力に襲われ、僕の思考は停止する。足元の甲板は失われ、僕は海面に放り出されたのだ。
「危ないっ!」
奇跡的に曽良三々が僕の足をつかんでくれる。奴のゲロ、ちょっとかかった。
しかしその曽良三々も「わぁ?」とか言いながら落ちてくる。助ける気は一応あったものの、体力も腕力もゼロなもので僕の体重に引っ張られてしまったのだ。
「兄ちゃーーーんっ!」
そんな曽良三々の足に、更にしがみ付いたのが竜也。
「あなた方ーっ!」
竜也の足に水口楓。
これ以降はおかしな集団心理のなせる異常行動だ。水口楓の左右の足にそれぞれトリ先生がかぶり付き、更に鴨はじめが飛びついたのだ。
「ギャアアアァァッッッ! 足がァァァッ! 痛ァーッ!」
日頃おすまし・水口楓の悲痛な絶叫。
同時に僕たちは連なった体勢のまま大海原に放り込まれた。
「にもっ……荷物っ!」水を飲みながら、曽良三々が叫ぶ。「あの荷物を守れっ!」
必死の声に、泳げない僕はただ焦るだけ。側を漂う大きなキャリーケースを、しがみ付くように抱えた。
何コレ? 重ッ! 水の中なのに重ッ!
奴の脳味噌は軽いくせに、荷物はえらく重いんだ。
※
6人一緒に浜に打ち上げられるなんて、出来すぎだろ。波にキリキリもまれながらも6人セットでどこまでも。
「う……ううっ」
僕は相当ダメージを受けていた。
「まさか……まさか無人島に漂着するなんて。そんなお約束すぎるベタな展開……まさか……」
「お約束? 展開?」
隣りに打ち上げられた竜也がこっち見る。
「あ、いや、何も」
映画や海外ドラマでよく見るあのシーンのように、僕たちは6人揃ってフラフラと海から砂浜へとあがって行った。
「身体、重ッ!」
文系男子の僕たちの動きは緩慢だ。トリ先生だけ1人だけ「キャー!」と叫んで飛び跳ねている。スイッチ入っちゃったみたい。
僕は念願のヌレヌレのトリ先生に見とれたいところだったけど、実際はそんなにいいものでもなかったので視線を逸らせた。
「ない。ないない……無いッ!」
実は秘かにショックを受けていたのだ。
僕、お気に入りのスピードマスター(厳密に言うとスイスじゃなくてご近所の国で作られた、スピードマスターに良く似た腕時計)が駄目になってる!
メン高入学祝いに叔父さんに買ってもらったやつなのに。大事にしてたし、まだ4ヶ月しか使ってないのに。完全に水没したからなぁ。すぐに修理に出せば直るかな。いや、すぐに修理に出せる環境にはないぞ、今は。
何せ僕らは漂流し、無人島に漂着したばかり。
あの漁師が居眠りから覚めたらすぐに気付いてくれる。すぐに助けに来てくれる。そう信じて──うん、信じてる。
そんな僕のすぐ隣りで両手をうちわみたいにパタパタ動かして「暑っつぅ~」なんて言ってるのは曽良三々だ。この状況に、少しも動じた様子がない。
さすが僕らの曽良三々。人並みの危機意識ってものを持ち合わせちゃいない。
「クーラーの ない学校のが マシっぽい──曽良三々」
早速一句詠んでるし。
太陽キっツぅ~と言いながら、足場の悪い砂浜をスタスタ歩いて向こうの木陰へとまっしぐら。とりあえず、その場の全員が彼の後に続いた。
「あ、歩くの速いですね、副部長」
「うん、筋肉が常に悲鳴をあげてる」
常に悲鳴をあげるような無茶な歩き方、しないでくださいよ。曽良三々、ひたすら木陰をじっと見つめて、何だか少し不機嫌だ。
「あー、疲れた。1か月分の運動した。いや、3ヶ月分かな。あー、後は寝て暮らしたい」
「兄ちゃん、ここまで必死に泳いだもんね。すごいガンバリだったよ!」
バカ兄弟のバカ弟が、バカ兄に向かってガッツポーズした。
「がんばった 泳いで泳いで 生き延びた──曽良三々……大体、みんな知ってるだろ。私が運動大嫌い・曽良三々ってことを!」
威張らないで下さい。そして、キャッチコピーみたいに言わないで下さい。
「あー、何でこんなことになったのか……。わざわざ合宿に出かける意味が、そもそも分かんないよね。旅行とか滅せよ! 外出とか滅びろ! 何せ面倒臭いし」
な、何言い出すの、この人?
「ねぇ、引きこもって生活できたら結局それが1番いいと思わない?」
「いや、一理ありますけど。でも……」
でも、ダメじゃん! 第一、そんな話題をエリートの僕に振らないでください。
壊れかけのリーダーを遮るように、或いは無視するかのように水口楓が大袈裟に手を叩いた。
「はーい。無人島に漂着した我々に起こりうる次の展開は何でしょうか?
①
ホラーですか?(ものすごいオバケに呪われてデッドエンド)
②
サスペンスですか?(この中の誰かが死亡。順番にデッドエンド)
③
サスペンス2ですか?(この中の誰かがおかしくなって、順番に仲間を…デッドエンド)
④
スリラーですか?(何者かによって仕組まれたゲームという名の殺し合いを演じるデッドエンド )
⑤
サバイバルですか?(この島は巨大吸血生物だった。たった一丁の銃を手に決死の覚悟で闘いを挑むもデッドエンド)」
「全部デッドエンドじゃないですか! ゴメンですよ! どんな想像力ですか。もっと違う方向で考えましょうよ!」
水口楓、眉間に皺を寄せて黙り込む。
「ラ、ラブストーリーという選択肢は?」
意外なところから声があがった。鴨はじめだ。自分は髪から服からボトボト水を垂らしながらも、曽良三々のキャリーケースをゴシゴシ拭いている。
「そうだ、ラブストーリー! それがいいです。賛成です!」
勿論、僕とトリ先生のと心の中で付け加える。
「ハァーイ。その場合、1人死にまーす。悲恋でーす。九割方、男の方が死にまーす!」
水口楓、パンパンと手を叩いた。
あんた、何でそんなにイキイキしてんだ?
「いや、アレでしょ? まさか船が通りかかるまでここで待つわけじゃないでしょ? ここ、実は誰かの持ち島なんですよね? 今はおかしなサバゲーの導入部を演じてるだけでしょ? 島の反対側にはちゃんと曽良家か水口家の別荘があるんでしょ? 嫌だなぁ、驚かせて」
何を言ってるんですか、と水口楓。
「曽良家は気の毒なくらいお金がないですよ。うちはまぁ、普通ですかね。息子の僕がアニメと書道、あとフルートを嗜む余裕くらいあります」
「はぁ……」
アニメって嗜むものだったんだ。
それにしてもコレ、ありえない展開だよ。無人島って……。嫌だ。最悪だ。
「ぼ、僕は朝一杯の梅昆布茶がないと目覚めない人なんです! 早く……早く家に帰してっ」
「意外と見苦しくうろたえますね。曽良君を見なさい。正に泰然自若」
泰然自若じゃない! 副部長、魂抜けてるし。ボーッとして、単に口開けてるだけだし。
「あの人は今、ここじゃない世界を見てるだけです!」
よく見たら曽良三々の側に竜也とトリ先生も座ってる。為す術なく、ただ座ってる。ポーッと口開けてる。ちょっと離れた所に鴨はじめ、キャリーケース抱えてこっち見てる。やっぱりポーっと口あけてるし。
「?」
気のせいか? みんなとの距離が少しずつ遠のいていってるような──? みんな、水口楓(と僕)から離れていってるのか?
気付けば砂浜で僕は緑作務衣の前にポツンと一人、正座させられていた。
「ハイッ! いいですか? こういう際のセオリーとして、食料調達班と家造り班に別れましょう」
「ハイハイッ!」
曽良三々がいつにない積極性で猛アピールした。
「しょくりょう! しょくりょう!」
何だよ、その役割分担は。無人島で食べる食料を集める係と、無人島で住む家を造る係ってことか──基本的にテレビの見すぎなんだよ、水口楓。
僕は指先で砂をもてあそんだ。火傷しそうに熱い。
「フ……フフ……ここ掘ったら石油とか出てこないかな。フフ……」
フフ……僕の夢は石油王だからな。
「曽良君以外は特に希望もないようなので──本当に皆さんには夢も希望もないようなので仕方ありません。ボクが決めます。3年生は食料係。1年生は家係ということにしましょうか」
「………………」
みんな、返事もしない。言い方がいちいち暑苦しいんだよ、水口楓。
僕は1年だから……竜也と二人で家造りか。イヤだな。コイツ、働かなさそうだ。
「ワ、ワシは?」
1年でも3年でもないトリ先生。必死の形相で生徒に指示を仰いだ。
「あ、居たんですか。トリちゃん」
「!」
「食料係でいいですよ。て言うか、別にどっちでもいいですよ」
「う、うん……」
トリ先生、すごく切なそうな顔した。
「ともかく5……あ、6人で協力してこの難局を乗り切りましょう」
水口楓がきれいに締めくくった。
「尤も、ボクとしては水曜の深夜アニメを録画予約しとけば良かったなと。悔いるところはそこだけですかね」
「あっ!」
竜也が突然大声をあげた。
「ソレってあのアニメですよね。夜中にやってるやつ。アレ、最初ワケ分かんなかったけど、4話目からグッと面白くなってきたし。ああ、ホントだ。念の為、録っときゃ良かった」
「でしょう!」
念の為って何だよ。
「特に次回はヒレステー・キセットさんの過去話じゃないですか。絶対見たかったし!」
「ヒレステーさんですか。あの方は人を駒としか見ない所がありますね」
「そこがいいんですって!」
「まぁ、それはそうですね」
「ですよ!」
何か意気投合してる。水口楓と竜也。こんな無人島でヘンな同盟、誕生した。
「ボクは女性リーダーに関しては語りますよ。何せ……」
ムニャムニャ言いたいことだけ言ってから水口楓、コテッと寝てしまった。アア~疲れたとか言ってから、ものの3秒でスヤスヤ寝息が聞こえる。この人、ある意味スゴイ!
仕方ない。
真っ昼間からアレだけど、他の面々も次々と砂地の上にゴロゴロ横になる。
食料とか家とか言われても、具体的に何をどうしていいのやら。疲れてるから、今は寝るのが最良の選択かも。
どこまでもノンキな現代っ子たちが、周囲でスヤスヤ安らかな寝息を立て始める。
信じられないことに、僕もつられて眠ってしまった。文系男子ってしょせんこんなもんだ。
まぁ、そうは言ってもさすがに寝たのは一時間程度だ。
徐々にジリジリ強くなる陽射しの下では、安らかな惰眠を貪ることは難しい。文系男子は太陽も苦手なのだ。
自然に目覚めて、悲しく身を起こす。そして、何も期待せずにその場に立ち上がった。
「みんな、起きろ! 起きるのじゃ!」
この状況に1番馴染んでるっぽいトリ先生、砂浜をウロウロしている。軍用ブーツを半分脱ぎながら、手に大きな魚持ってた。
「獲ったよ! 魚、獲った。素手で!」
──危ないっ!
言おうとした時だ。
「アデッ!」
足首、カクッとなった。トリ先生、砂地にバタッと倒れ込む。その拍子に魚が手からすっぽ抜け、木々の向こうへ飛んでった。
「アーッ! せっかく獲った魚ーっ!」
顔面砂まみれで、ポロポロ涙を零す彼女をカワイイと思ってしまう自分。むしろちょっと恥ずかしい自分。
「痛デデッ!」
足のダメージと魚を失くしたショックで落ち込むトリ先生を、僕はここぞとばかりに頑張って慰めた。
「だ、大丈夫ですよ。元気出してください。僕も昔おじいちゃんの車に足踏まれたんです。バックしてくる時に僕の足の甲の上をタイヤが通って。おじいちゃんって叫んでも気付いてくれなくて。ゆーっくり踏んづけてくるのに、激痛! 骨がメリメリーって言って、折れました」
「そ、そうか。おじいちゃんに……」
トリ先生、僕の足を見下ろした。今は無論、普通に歩いたり走ったりできる。
「でも冬になると痛むんですよね」
「そ、そうか……」
明かに、ちょっと引いてるトリ先生を見て僕は軽く後悔した。ああ、余計なこと言ったかも。
「と、ともかく僕は家係の仕事をするとします。待っててください、トリ先生! オシャレで快適な家を建ててみせますから」
「う、うん……」トリ先生、まだ僕の足見てる。「そうか、おじいちゃんに……」
気を取り直して僕は砂浜に打ち上げられている流木を1本1本引きずってくる作業に入った。テレビで見たことある。こんな流木を組み合わせて家の骨組みとか床を作るんだ。あとは草を被せて屋根にする。
多分、簡単。救助が来るまで一晩、そこで過ごせばいいだけだもん。
そのうちみんなモゾモゾ起き出して、僕が流木引きずるのを見ていた。
「ゼェッ、ゼェッ。ハァッ、ハァッ」
重いったら、ない。1本引きずるだけで汗がダクダク。自分の熱気で眼鏡が曇る。ま、前が見えん。
「ヒィーッ、ハァーッ」
よくよく考えたら僕、デスク型のエリートなんだった。
木を切ったり、家を造ったり、森を拓いたり──。そういうサバイバル的なことは無論したことないし、恥ずかしながら知識もない。
このテのことなら鴨はじめが得意なのか(イメージ)?
いや、意外と曽良三々、無駄な知識すごそう。こないだだって部室で居眠りしながら寝言で変なこと叫んでた。
「救護班はまだかーーーッ!」って。
分からん。あの人は、分からん。
……どっちにしろ、2人とも後輩を手伝う気はなさそうだ。木陰に並んで座ってお菓子食べながらこっち見てる。時々、僕のこと指差して笑ってる。和やかな空気、醸し出してる感じが何とも腹立たしい。
「何食べてるんですか」
クソッ、眼鏡が曇ってよく見えない。曽良三々、何かを見せながらこう言った。
「モガモガモガ……ムニャムニャ」
「口の中のモノ、飲み込んでから言ってくださいよ!」
「モグモ……うんP型チョコ、食べてる」
「………………うんP?」
最ッ悪だ、この人。
鴨はじめが大量にオヤツを持って来たらしい。リュックに背負ってたから、海に放り出された際も手放すことなく済んだのだ。
「海水で ちょっと溶けてる うんPチョコ──曽良三々。食べる?」
「い、いりませんよ」
ちょっと溶けてる? ヤバイ! すごくリアルなの、想像しちゃった。
「そ、それよりあんた達、食料調達班じゃないんですか! うんPばっかり食べてていいんでしょうかね!」
ところが奴等に嫌味や皮肉は通じやしない。天敵の2人は仲良く顔を見合わせると、互いのうんPを確認しながら肩を竦めた。
「オカシなら、いっばい持って来たぞ」
「そう。それ食べて暮らそうよ。わざわざ危険を冒して野生動物と格闘しなくていいし、得体の知れないキノコを食べることもない」
「はぁ。お菓子ですか……」
つくづく面白くない面々だ。
「それより……なぁ」
「ちょっと臭いかも」
2人、声をひそめて笑いあう。そりゃそんなモン食べてりゃ臭いもしましょう……え? 何こっち見てんですか?
「しーっ」とか言いながらチラチラ僕を見て笑ってる。ニタニタと、これがいやらしい笑い方なんだ。
「え、何? 何ですか?」
たまらなく、不安になる。
「臭ッ!」
「汗臭ッ!」
小声で何か言い合ってるし。
臭いって、何? 僕のこと?
「しょ、しょうがないでしょ。思わぬ肉体労働して汗だくなんだから! それに、着替えの入ったカバンも流されて……」
「汗だくなんだと」
「臭くて当然って?」
あ、ダメだ。くじけそう。だって自分でも臭いの分かるもん。
「だって……だって、着替えもなくて……」
クンクン臭う。特にワキの辺りがヤバイ。
「着替えなら、あるのじゃ!」
唐突に下った──まるで神の声。
ソレはトリ先生の足元に鎮座する大きめのキャリーケース。海に投げ出された際、曽良三々が必死になって守った(実際に守ったのは僕だけど)ものだ。
「開けてみよ」
彼女の声に、僕は縋る思いでキャリーケースを開けた。他の奴はどうでもいい。でもトリ先生に「コイツ、臭いのじゃ」と思われるのは嫌だ。辛すぎる。
パカッと開けたケースの中。
「なにこ……れっ?」
愕然とした。
そこにはヨレッと型崩れしたものの、色とりどりの5枚の作務衣が並んでいたのだ。
──あの荷物を守れっ!
曽良三々の、あの時の切羽詰った声を思い出す。
「食料より携帯より、作務衣重視ですか」
しかもコレ、ちょっと待てよ?
黒。
緑。
赤。
ピンク。
そして、黄──。
「見慣れない色した作務衣、出現してるんですけど?」
「臭ッ!」
「汗臭ッ!」
わざと聞こえるように言ってるな、あの人たち。
「………………クッ」
そろそろと僕は臭いTシャツを脱いだ。目を閉じ奥歯を噛み締めて、そいつに袖を通す。
「不本意だ……」
ものすごく理不尽な思いだ。
「オォーーーッ!」
周囲のざわめきにそろそろと目を開けると、真っ先に視界に飛び込んでくる己の黄色。
ああ、遂に着ちゃった。決して着ることはないと固く誓っていた恥ずかし作務衣を。
「お似合いですよ」
水口楓に貴公子然としたスマイルで褒められる。僕としては複雑すぎてどう返したらいいか分からない。竜也のニタニタ笑い。更に曽良三々、じーっとこっちを見つめてくる。妙に整ったその顔で、しかしどうせロクなこと考えてないのは分かってる。
「知ってた?」
「何ですか」
「作務衣って意外と涼しくないでしょ」
「そうですね! たった今知りましたよ。おかげさまでね!」
案の定だよ。ロクなことない。
そのまま作務衣リーダー・曽良三々は立ち上がった。僕が運んできた流木の中から1番細いやつを手にして砂浜に何か文字を書き出した。何て書いてんだ? 漢字じゃないぞ?
『HELP』
これぞ正に書の道、と一人で悦に入ってる。
「かつて中国では砂の上に文字を書いては消し、書いては消し、何度も練習したという」
ああ、そうですか。紙が貴重だったからですかね。
『HELP』──砂浜に大きく、何度も書く。
飛行機や自衛隊機に見つけてもらおうということか。この人も実は意外と焦ってるのかも。HELPと繰り返す手付きは真剣そのものだ。目も潤んでて必死の形相。
それを見て僕もちょっとだけ安心したものだ。何ていうか、この人の人間性を。
ところが、だ。
3日経っても、アレ? 救助が来ないのは何故だろう。
こんな黄色作務衣着て、毎日空しく流木集めて着々と家を造る毎日。
「もっとこう……もっと……」
ちょっとヒゲ伸びた僕は独り言が増えてきた。
「高1の夏休みってホラ、もっとこう……ドキドキ体験とかがあるんじゃないですかねぇ」
「これ以上のドキドキを求めるなんて、原田君は欲張りさんですねぇ」
恥ずかしい独り言を、水口楓にしっかり聞かれてた。
「み、水口先輩、いつからそこに? いや、種類が違うって言うか。こんなドキドキならむしろいらないって言うか……あの?」
「フフ……」
水口楓に背を向け、僕は再び砂浜に向かった。いい感じの木を探して。そんなことしながら、僕は超有名海外ドラマを思い出していた。島に漂着した飛行機。生き残りの男女30人ばかりが無人島で命がけのサバイバル生活を送る。武器を奪い合ったり、恋したり……展開が速くて面白いんだよ。
ちょっとだけ 似てると思った この状況。
(↑一句詠んだわけじゃない)
尤もテレビのような青い海と白い砂浜ってわけじゃない。何だかどんよりした空と海。灰色の砂浜なんだけど。
「マイナスをプラスに変えよう。マイナスをプラスに変えよう。マイナスをプラスに変えよう」
孤独に流木運びながら、僕は3回呟いた。この極限状態の下、トリ先生との愛を育もう! なんて。
「フーン? がんばってー?」
「た、竜也? いつからそこにッ!」
今度は不気味君に独り言を聞かれ、僕は焦った。竜也が得意のニタニタ笑いで僕をじっと見てる。
「トリちゃんねぇ……どこがいいのー? あの人、ニューハーフだよー?」
「えっ?」
何その衝撃発言!
「え、ウソだろ……」
ニューハーフだって?
「ウフフフフフ。知らなかったの、タローくんだけだよ?」
不気味君は僕を見て笑うだけ。人を小バカにしたその表情。
ち、違うよな? トリ先生のあの胸は──真っ先に胸に思考が行く僕もかなりの変態だけど──でも、あの胸は造り物じゃないだろ。あんなに大きくてフルッフル揺れてて……いや、だからこそ不自然ってことも?
「自転車じゃ!」
突然の特徴的な大声に、僕はビクリと身を震わせた。
「ト、トリ先生?」
ニューハーフのトリ先生?
「これであとは自転車さえあれば、生活の全てが足りるのにな」
ノンキな感じでそんなこと言ってる。この環境に、すっかり馴染んだ感じで木の実をポリポリ齧ってる。
「ニューハーフ……?」
そういや、ブルマーから出てる足は意外とたくましい系だ。いや、それは毎日自転車に乗っているから?
「トリちゃん、本当に自転車好きだよね」
竜也が何食わぬ顔して笑った。
「こないだ自転車のサドル、盗まれたのじゃ」
「ま、またですか! もう自転車に乗るの、止めた方がいいですよ。相性悪すぎますよ」
思わずそう叫んでしまってから後悔した。
「ワシ、自転車と相性悪くなんてないよ……」
悲しそうな目でこっち見る。まさかトリ先生、自転車のことを『鉄のおトモダチ』とか思ってるんじゃ……ああ、思ってるんだな、この人は。
「そうだよな。友達のカゴ盗られたり、サドル盗られたらきっとものすごく辛いよな……」
「タローくん? キミもさっきから何をブツブツ言って?」
竜也の声なんて耳に入らない。
「トリ先生! 僕、トリ先生の自転車になりますッ!」
「はぁ?」
竜也が顔を顰め、それからトリ先生が「オオォォォーーーッ!」と叫んだ。
「さあ、乗ってください! 僕はあなたの自転車です!」
僕はその場に仰向けに寝転んだ。うつぶせじゃなくて仰向けって所が大きなポイントだ。そして固く目を閉じる。両瞼の上にトリ先生の軍用ブーツの底がガチッと乗った。
「走れ、ハシレーッ!」
踏み締められる痛みと、何か言い様のない興奮に耐えながら、僕はトリ先生を落とさないようジリジリと地面を這い進む。
「ハァッハァッ……」
「走れーッ!」
「ハァハァ……」
1時間かけてじわじわと砂浜を5メートル進んだところで、僕は気付いた。
ブーツ底の隙間──視界の端にチラチラする黒を。ボトッ。うんPチョコを落とす曽良三々。
ブーツ底の隙間──視界の端にチラチラする黒を。ボトッ。うんPチョコを落とす曽良三々。
「な、何やって……。貴様ら、何をやって……?」
日頃ノンキな曽良三々が、今まで見たことない表情で僕を見た。
「あ、いえ、あの……遊びです。ただの遊びですって」
この格好で、必死で言い訳する僕。
「た、楽しくやってるだけですから。いや、ホント」
「楽しいのか……?」
「あ、いや、その……」
ここでトリ先生が僕の目から降りた。
「ア! 痛ッ! イッタ!」
「自転車とはずいぶん違うのじゃ。タイヤもないし、ノロイし、座る所だってない」
どうせあんたの自転車、サドルないんだろ?
「コレはいい自転車ではないのじゃ」
一蹴されて、さすがの僕もムッとした。
「僕の努力を見てくださいよ! ホラ、この両目のアザを見てくださいよ! 本気で本物の自転車と比べたりしないで下さい!」
トリ先生は僕の方をチラッと見てから、黒作務衣の方へ駆けて行った。彼の手元のうんPチョコに惹かれたらしい。最近、糖分足りてないから。
「………………」
砂浜で僕は再び仰向けに寝転ぶ。
「空しい。すべて空しい……」
上空をビュンビュン飛行機が行きかうのに、なのに誰も砂上のHELPには気付いちゃくれないみたい。
※
夏休みが終わるまでの2週間、僕たちはここで暮らした。何てことない。大して危険もなけりゃ、危機感すらない。いつものようにダラダラと──既に名物となったうんPチョコを齧りながら。
ある日、漁船に発見されて警察に引き渡された。捜索願いが出ていたとかで、すぐに家に帰される。
こうして僕たちの夏休みは終わった。すごく無駄な感じに終わった。
何せこの2週間で1番驚いたのは、日ごとに水口楓のヒゲが濃くなっていくことだ。終いには長い髪を後ろでくくり、ヒゲボーボーという、胡散臭い国語教師みたいなナリになってた。
余談だが捜索願いが出ていたのは、僕だけだったらしい。
天然の曽良兄弟やヤンキーの鴨はともかく、水口楓は相当ショック受けてたみたい。
「大事な息子を……まさか大事な息子を……」
家族から見放された気になったらしい。夏の終わりに喚いてたっけ。
夏休み最後にトリ先生が叫んだ。
「今月の課題は『HELP』──コレに決まりじゃ!」
ああ、砂の上に何度書いたことか……。
【9月・前編につづく】