「トリ先生のお休みの日って土日でいいんですよね」
これは確認の質問だ。面と向かって本人に聞けない僕の小心が、我ながら何ともいじらしい。
「だよね。きっと。近々、毎日がお休みってことになるかも、だけど」
「ハハッ。縁起でもない事を。でも現実味ある仮説ですね。あの人はいつクビになるかしれませんから」
曽良三々と水口楓に聞いたのが間違いだった。
最近気付いたのだがこの人たち、トリ先生ネタで相当遊ぶ。
トリ先生が愛すべきいじられキャラなのか、はたまた奴らのストレスの餌食なだけかは、何とも微妙なところである。
「ささ、そんなことより。皆さん、開場しますよ。準備はいいですね」
緑作務衣がパンパンと手を叩く。
今日は字ャっ部、毎月恒例の展覧会の日なのだ。
「先月の無人島サバイバル生活を生かして、みんなで協力しあいましょう!」
どうポジティブに考えたらアレが……あの日々が生かせるんだか。無人島サバイバル生活を送った者同士、何か芽生えるものがあったかというと、実際そうでもない。基本的に自分中心のこの文系野郎共は、帰ってきたらまた勝手なダラダラを始めたのだ。
もうヤだ。この部、もう辞めたい。毎日のようにそう考える始末。
「いらっしゃいませー」
それでも辞められないのは分かってる。この頃は3日に1回は例の黄色作務衣を着てる自分。だんだん抵抗がなくなってきたし。
「どうぞ中に入ってくださいーっ」
ガラリとドアを開けると日頃閑散とした地下1階廊下は、思わぬ賑わいをみせていた。入口で配られるパンフレットと会誌を手に、ゾロゾロと生徒たちが書道室に入ってくる。
「おい、原田」
肩を叩かれ振り返ると、宮野と島田がいた。2人とも、こうやって毎月見に来てくれるのだ。
「相変わらずムカツクくらい盛況だな」
「ハハ、おかげさまで」
島田がじっと僕を見る。複雑な視線だ。
「原田くん、すっかりそっちの人になっちゃったんだね……」
「や、やだな、島田。そっちって何?」
ホラ、忘れがちだけどうちってイケメン揃いだろ。だから女子が遊び感覚で来るんだ。毎月の展覧会は結構忙しいし、信じられないことに充実している。
見回すとトリ先生と水口楓が忙しく説明に回っている。
曽良三々はポヤ~っと椅子に座って室内を見ており(総監督らしい)、竜也は入口でパンフ+会誌配り。鴨はじめはやることがなく手持ち無沙汰でウロウロしてる。僕は廊下と部室内の人員整理担当なのだが正直、仕事が手に付かない。
チラチラとトリ先生を見やる。ああ、言って良かった。
──現代前衛書道展のチケットが2枚あるんですけど、一緒に行きませんか?
勇気を出して言って良かった。開場直前に話しかけたのだ。
来週の土曜日、11時。国際会議場のギャラリー前で。
「なんてデートっぽいし」
断られて殴られるかと思ったけど、トリ先生は「ニューの自転車に乗って行くよ」と言ってくれた。やましくないよ。書道部で、顧問の先生と共に書道展に行くなんて普通に有意義じゃないか。
「てか、デートっぽいし」
浮かれ気味の僕を見て、宮野と島田はチラと目配せして小刻みに頷きあった。フルフルと首を振ってから立ち去っていく。
その日、展覧会が終わってからの反省会で竜也が僕を名指しした。
「タローくんがニタニタして気持ち悪いと苦情がきました」
あんたにだけは言われたくないよ、ソレ!
「タローが人員整理の仕事を何もしてなかったです」
鴨はじめにも言われた。
スミマセンと僕は謝らさせられ次の1週間、全員分の墨磨りの仕事をさせられることになってしまった。
そんな日々を耐えることができたのは、ひたすら土曜日を待ち望んでのこと──。
※
その日。待ち合わせ30分前に国際会議場ギャラリー前にやって来た僕は、そこに倒れる血だらけの女性を発見した。体操服にブルマー……そう、お馴染みの格好だ。
「ううぅ……」と呻いている。
「ど、どうしたんですか、トリ先生!」
駆け寄る僕。周囲の人たちはそんな僕らを遠巻きに見ているだけ。
「ニ、ニューの自転車でコケた」
「ま、また自転車ネタですか。だからトリ先生は自転車との相性悪いんだから、もう乗るのは止めたらどうですか」
デート気分は完全に吹っ飛んだ。血まみれ彼女を助け起こして、近くの噴水で傷口を洗う。携帯している救急キッドを駆使して手当てしてやると、トリ先生は次第に元気を取り戻してきた。
「自転車、川に落ちてバラバラになったから諦めるのじゃ。3,500円で買ったばかりだけど」
そりゃお値打ちの自転車、見つけたもんですね。
「トリ先生のおうちってどのへんなんですか? どこにでも自転車で行ってるみたいですけど」
軽く聞いたつもりなのにトリ先生、どんよりうなだれる。
「遊びに来るトモダチもいないのじゃ。家なんてイラナイよ」
いや、家は友達の為のものじゃないでしょう。
絆創膏の端のモロモロを手袋でむしりながらボソボソ喋る。
「そういやこの前、うちにオマエが遊びに来る夢を見たのじゃ」
「エッ、本当ですか。トリ先生が僕を夢に見てくれるなんて、幸せです!」
「……いくらトモダチがいないからって、あんまりじゃ」
トリ先生的には不本意らしい。ズドンと落ち込んだ風だ。その姿を見て僕もズドンと落ち込んだ。
そんなこんなで僕らはかれこれ3時間かけて、ようやくギャラリー入口までやっ
て来たのだった。
て来たのだった。
「さ、書道会の大御所の作品から観ていきましょう。楽しみですね、トリ先生……トリ先生?」
居ないと思って焦ったら、早速入口付近で既に胡散臭いのに捕まってるし。
「人助けのつもりで言ってるのですよ」
紺色の作務衣を着たおっさんがトリ先生に話しかけてる。
慣れた筈の作務衣だけど──アレ? この色、不思議と落ち着く。そうだよ。作務衣ったら基本はこの色だろ。ああ、久々にまともな作務衣を見たよ。
1人、納得した僕だけど事態が胡散臭いことには変わりない。トリ先生、紺作務衣の話を聞いては頻りにウンウンと熱心に頷いている。
あのオッサン、どこかで見たことあるような……。
記憶の糸を手繰り寄せて、僕は下らない出来事に思い至った。それは曽良兄弟が見ていた書道の月刊誌だ。大判で分厚く、やたら重いその本は、しかし質の良い書道雑誌として部内では漫画雑誌・週刊エアコンに次ぐ人気なのだ。
その本に写真が載っていたのが、あの紺作務衣。
日本書道研究──松平会三代目らしい。外国文化との融合を図る未来の書道とかいう、イマイチ訳の分からないインタビューを特集していた。
「私はここの4代目になろうと思っている。ずっと狙っていた」
「すごいよ! 兄ちゃんならできるよ」
バカ兄弟がバカなことを言ってたもんだ。
ともかくその松平3代目、笑顔で用紙を差し出した。トリ先生にペンを渡して、サインさせようとしているみたい。
「おおーっと、ちょっと待ってくださいッ!」
書類に16万円という文字が見えたからだ。期日までに支払います、とある。
「ト、トリ先生、そんなもんにサインしちゃダメでしょうが!」
「なぜじゃ?」
首を傾げるトリ先生からペンを奪う。松平3代目はニコニコしながら、今度は僕にターゲットを絞ってきた。
「有名な書道の雑誌にそちらの学校の書道部のことを載せてあげるよ。写真2点と作品5点を一ページに組んで、たったの16万円。高くないよ。5人で割ったら一人、3万4千円ですむんだから。金のかかる世界なんだよ。学生はずいぶんお得だよ。大人になった途端、普通にこれの十倍はかかるからね」
呪文のようにブツブツ言われ、僕も一瞬サインしそうになったし。
「もっとリーズナブルなのもあるよ。正月の書初め展に出品するかい? 一人5千円の出品料でいいよ。10人分まとめて応募すると、十分の一の割合で賞をあげるよ」
「いや、いりません! 出しません! 帰ってください! トリ先生、まんまと騙されないでください。行きますよ!」
スゲェ、松平3代目って。それとも古くからある世界ってこんなもんなのか?
「賞くれるって……」
まだ未練がましく紺作務衣を振り返るトリ先生の手を引いて、僕は会場奥へと入っていった。気分は台無しだ。前から思ってたけどこの人、相当騙されやすい。
気を取り直して、僕たちは大御所の作品を順に見て回っていった。見ながらトリ先生はずっと鼻をクンクン動かしてる。
「オナラの臭いがしない? ねぇ、オナラの臭いするよ」
そんなこと言いまくってる。僕には全然分からない。特に鼻が悪いわけじゃないんだけど。
もしかしてトリ先生、僕に対して稚拙な嫌がらせしてるんですか? それとも僕が臭いって……暗にそう言ってるんですか?
僕は周りにバレないよう自分の脇に鼻を近付けた。
「確かに汗臭いッ!」
無理もない。だってまだ9月。世間は平気に今年の最高気温を更新していく最中だし、それに僕は新陳代謝著しい男子高校生だもの。
「スイマセン。臭くてスイマセン」
オナラの臭いって言われたのは、自分でもさすがにショックだったけど。
そのまま僕は身を縮めてトリ先生の臭い臭い攻撃を凌いだ。己の臭いが気になってなるべく周りの空気を動かさないように、できるだけ息も吐かないようにしてたから正直、展覧会どころじゃなかった。
そして出口付近。書道具の販売をしている所で、トリ先生の「臭くない?」攻撃はようやく止んだ。
「ウワーッ!」
嬉しそうに駆けていく。墨に硯、様々な太さの筆に色とりどりの紙が並んでいる。この間から書道を始めた(と言っても『孤独死』とか『HELP』しか書いてないんだけど)僕ですら、ちょっとワクワクしてテンション上がる。
「欲しくなる! こういうの、見たらすごく欲しくなるのじゃ!」
トリ先生、嬉しそうだ。
「ど、どれが欲しいですか? プレゼントしますよ」
ここぞとばかりに僕は財布を握り締める。出かけにATMで今年のお年玉を下ろしてきたんだ。
「い、いいよ。いらないのじゃ」
首を振るトリ先生。でも目線はある一点に釘付けだ。ウフ。カワイイ。生徒の僕に遠慮してるんだ。
その視線を辿ると……案の定、ヘンなのあった。教科書でお馴染みの聖徳太子の絵に『和の心』と書いたタペストリーだ。
「あんなの……いや、アレが欲しいんですか?」
コクリと頷くトリ先生。急にお金が勿体なく思えてきた。でも仕方ない。ここで引くわけにはいかないだろ。
「こ、これください。あ、そっちです。和の心の方……そっちです。はい」
言いながら値段を見て驚いた。3万4千円って……これが3万4千円って!
「ごめんなさい。やっぱりいいです」
僕のお年玉は合わせて2万3千円だった。
「い、いいよ、別に気にするな。欲しくないのじゃ」
気まずい感じでトリ先生、聖徳太子を棚に戻す。ああ、この人さすがに最低限の常識だけは持ち合わせているようで、奪って逃げたりはしない。
「何か、すみません……」
いたたまれない。浮かれていた分、更にいたたまれない感増大だ。気にすることはないのじゃ、と言ってくれるかと思ったけどトリ先生は「暑い暑い」と両手で顔をパタパタ仰いでいるだけだった。そもそも人の話を聞かない人だ。最近、僕の周りこういう人多い。
「暑っいのじゃ」
パタパタうるさい。
「じゃあ、せめてその手袋とったらどうですか」
例によって左手にしっかり手袋してるんだもん。例のゴツイやつ。
「そ、それは……」
トリ先生、サッと左手を自分の背に隠す。スイマセン。意地悪しました。好奇心から嫌なこと言いました。
「だけど気にすることないですよ。宇宙規模で考えたら、トリ先生の6本目の指の表面積なんて大した大きさじゃありませんよ」
うわ、我ながら慰め方が曽良三々の天然っぷりと水口楓の嫌味っぷりを見事に融合した感じで嫌だ。
「し、知っているのか。ワシの秘密を!」
トリ先生、ハッとしたようにこっちを見る。いや、ソレ有名な話ですから。既に。竜也が吹聴してまわり、字ャっ部の面々はとっくに知っている。多分全校生徒に知れ渡っていることだろう。
「内緒じゃ。絶対に内緒じゃよ」
トリ先生は僕を木陰に引っ張っていくと、パッと手袋をとった。問題の左手が露になる。
「うわ……」
あらかじめ分かっていたのに、実際目の前にすると覚える強烈な違和感。
本当に指、6本あるし! 白くて細い女性らしい指が5本並ぶその横に、ポコッと飛び出た肉の塊──6本目。長さにして隣りの小指の半分くらいか。ごく小さな爪も付いている。
本当に指、6本あるし! 白くて細い女性らしい指が5本並ぶその横に、ポコッと飛び出た肉の塊──6本目。長さにして隣りの小指の半分くらいか。ごく小さな爪も付いている。
「コイツのせいでトモダチもできぬ……」
トリ先生は顔を歪めながら、再び手袋をはめた。
「何度この指を切り落とそうと思ったものか……。でも痛いのとか、イヤじゃ。わ、笑え! 笑うがいいわ!」
突然キレられて、僕は一歩身を引いた。
「そうじゃ。ワシはヘタレじゃ……」
指の数より、むしろ路上でのこの罵倒っぷりのが恥ずかしい。
「トリ先生、シーッ! こんな往来で指6本とか叫ばないで下さい。い、いいじゃないですか。指の数なんてどうでも。6本あったら便利じゃないですか? トリ先生、器用だし書道もうまいし」
「器用なものか! 意味ないのじゃ! 6本目の指は動かないのじゃから」
「そ、そうですか……」
こりゃ慰めようがない。指に関しては何を言っても無意味な気がする。
ああ、代われるものなら代わってあげたい。僕は指が6本あったって気にしないし、別に困らないし(?)どうでもいいもん。あ、もしかして逆にいい機会なのか? 今がチャンスなのか? トリ先生を慰めつつ、思いを打ち明けるのは今しかないのか?
「ト、トリ先生っ!」
僕の大声にトリ先生は無論、周囲の人々の足も止まった。
「トリ先生の指が何本あっても僕は構いません! 更に僕、知ってます。トリ先生がニューハーフだってことも! でも、好きです! トリ先生がニューハーフでも、デブ専でも何でもいいです。僕の覚悟は決まってます!」
周囲から「おぉーっ!」とどよきがあがり、まばらな拍手が僕たちを包んだ。
目の前のトリ先生は真っ赤な顔して俯いている。肩がプルプル震えていた。
──まさか、僕の告白に感動して泣いて……?
プルプルプル……。全身震わせ、そしてトリ先生はゆっくりと顔をあげる。真っ赤に染まった頬。潤んだ瞳──しかしその目は攣り上がり、強く強くぼくを睨み付けていた。
「誰が……誰がニューハーフじゃーーーッ!」
トリ先生は絶叫した。周囲の拍手が、何故か一段と強くなる。
「ワシが男じゃと? ワシが……ッ!」
「え? え、あの……?」
「たまにいる。年に3回くらい聞かれるけど。ワシの……ワシのどこが男なのじゃーッ!」
え、だって竜也が……え、違うの? それにしても年に3回ったら、結構な頻度ですよね。
「この胸の材料は何ですかとか、ヒドイこと聞かれる! コレは自前じゃーーーッ!」
自前じゃーーーッ!
大空に向かって彼女は2回叫んだ。ポロポロ涙を零している。僕はここで初めてヤバイと気付いた。取り返しの付かない展開に陥ってる?
「す、すみませんっ」
「あっち行け。オマエ、あっちへ行けっ!」
シッシッと手で払われる。トリ先生、地面にチョークでHELPと書き出した。
「誰か助けて。誰か何とかして。夕べ小人を見たワシを、どうか呪ったりしないでください」
錯乱している。ブツブツ言いながら繰り返しHELPを書いている。
「ごめんなさい、トリ先生。ゴメンナサイ」
僕は往来で土下座した。ひたすら土下座した。
そのうち飽きてきたギャラリーは去り、どうしようもない状態の僕たち2人が取り残される。