卒業式のその日、トリ先生は曽良三々に宣戦布告するという。
「ワシ、言いたいことは言ったるけん! 我慢なんかせんからのぅ!」
聞き慣れないイントネーション。しかし珍しいくらい小気味良くポンポン言ってる。
ここにきて、何? 突然目覚めたの? この人。目の前に当の黒作務衣が居ないからこそ言えるセリフなのだろうけど。
部室にいたのは僕と竜也。2人してポカーンと口開けてそんな彼女を見守った。
「字ャっ部! ぐぬ~~~ぅ」
一頻り怒鳴って、後は小さな声でトリ先生はブツブツ言い始める。
「部長はワシなのに、何だか徐々に字ャっ部をのっとられていく気がするのじゃ。あの曽良ちゃんに」
かなり思い詰めた様子だ。トリ先生……今頃それに気付いたんですか。字ャっ部はとっくにあなたのモノではなくなってますよ?
「あーああー。この分じゃ毎月の課題を決める権利も、曽良ちゃんに奪われてしまいそうじゃ。あーあーああー」
変な動物みたいにアーアー嘆いてるし。
6本目の指はトモダチ騒動から、どうもテンション低かったトリ先生。色んなことに自信を失ったみたい。
特にこのところ副部長にいいようにこき使われて、なけなしのプライドとも、すっかりズタズタにされたらしい。
最近よくこうやって「アーアアー」嘆いてる。
「トリちゃんの言うことも分かるよ。竜也も最近、兄ちゃんが分からない……」
竜也が突然涙ぐんだ。相当辛そうな表情してるし。うわ……と思った。イヤだ。
何とも面倒臭いことになりそうだ。
「……て言うか、兄ちゃんの愛情が分からないんだ」
「副部長の愛情ってあるの……?」
いや、あの人にはとりあえず、人間全般に対する愛情がものすごく薄そうなんですけど?
「あ、いやいや。別に悪い意味じゃなくて」
「悪い意味じゃない愛情の薄さとは如何なる?」
僕の悲しいフォローに珍しくトリ先生がツッこんだ。その言葉に、またも竜也が涙を零す。なかなかウザい不気味君だ。
「もし……もしも竜也が誘拐とかされたら兄ちゃん、助けに来てくれるかな」
そのタイミングでガッ! と僕の方を見る。
「な、何? まさか狂言誘拐を画策して?」
「さすがエリート! 飲み込みが早ぁい!」
エリートと誉められ、こんな状況ですら僕、悪い気しないし。ああ、自分でもバカだ。
「何その目? え、つまり僕に狂言誘拐の片棒を担げと?」
竜也、グァガッとこっち見た。ものすごい目力だ。
「そうじゃな!」
──頼られてる! そう思ったのだろう。勘違いしたトリ先生、俄然調子に乗り出した。
「ワシに任せよ!」
体操服の胸をドンと叩く。異様に上がっていく彼女のテンションが恐ろしい。
「ホントに? トリちゃん」
「ああ、任せよ! ワシには兄弟もいなければトモダチもいない。でもオマエの気持ちは分かる。うるわしい!」
「トリちゃんっ!」
盛り上がる2人。ああ、どうでもいいけど僕を巻き込んだりしないでくれ。
僕は竜也の肩をそっと突いた。
「や、やめろよ、狂言誘拐なんて。世間に知れたら異様な兄弟愛とかって騒がれるんだぞ。近所から気持ち悪い兄弟って言われるんだぞ」
「竜也、気持ち悪い……?」
「気持ち悪くなどないぞ。むしろ気持ち悪いのは原田の方だ!」
友情に目覚めたらしいトリ先生が、ものすごく失礼なことを言う。
「ワシに任せよ。ああ、ワシに任せるがいい!」
「いいから。トリ先生はちょっと黙っててください」
さすがの僕もちょっとイラッとした。
※
正月にボヤを出して以降、結局トリ先生がどこに住んでいるのか僕は非常に気になっていた。
尋ねても「秘密じゃ。オマエに来られても気持ち悪い」と言われ、僕としてはその度に微妙に傷付いてきたものだが。
尋ねても「秘密じゃ。オマエに来られても気持ち悪い」と言われ、僕としてはその度に微妙に傷付いてきたものだが。
1月中はまだみんなも彼女の新居に興味津々で何とか聞きだそうとしていたものだが、2ヶ月も経つと皆飽きてきた。と言うか、忘れてた。
「こっちじゃ、こっちじゃ」トリ先生、嬉しそうに僕らを手招きする。「誘拐犯に相応しいアジトを提供しよう。こっちじゃ。早く!」
やたら指揮りだしたトリ先生。僕は問答無用で例の黄作務衣を着せられ、ピンクの不気味君と共に彼女の後をツラツラ付いていく。
「早く! 早く来るのじゃ!」
「ハイ」
「ハイ。分かってます」
……何だろう。この3人の中じゃ、リーダーはトリ先生なんだ?
僕らは恥ずかしい格好して一列に並んで町を練り歩いた。
行き着いた先は例の駅前広場。
やや懐かしい感もある自転車置き場──迷いない足取りでその奥へと進んでいくトリ先生。
何だろう、すごく嫌な予感がする。自転車に囲まれた隅っこの方。ダンボールが塀のようにいくつも積みあがっているその小さな空間──まさか?
「ここが今のワシの居宅じゃ。ジャーン!」
自ら擬音を発してるし。
「トリ先生、まさかずっとここに住んで……て言うか、自転車置き場で寝泊りして?」
堂々と胸張って「そうじゃ!」と答えるこの女性。この大人。
「2ヶ月もの間ここで……?」
「その通りじゃ!」
ゴクリ。僕の隣りで竜也が生唾飲み込んだ。
「さ、3月になったとはいえ、まだ寒いでしょ……」
するとトリ先生、近くに積んであったダンボールと新聞紙をかき集めてきた。
「けっこう暖かい上、かさばらない。紙は貴重な資源ですじゃ!」
どこかのエセ政治家のようなこと言ってる。
「ホレホレ!」
僕らに1束ずつ古新聞を放ると、自分は慣れた様子でその場にゴロリと横になった。程なくして聞こえてくる寝息。
今更だけどこの人の神経、ちょっと分からない。
「とりあえず脅迫電話しない? 弟は預かったって、兄ちゃんに」
「は?」
「だから兄ちゃんに電話」
言いながらもう携帯持ってる竜也……コイツの神経も分かんない。あ、しかもそれ。僕の携帯だし。
『オトウトハユウカイシタ』
止める間もない。変な声でそんなこと言ってる。電話向こうでは「何っ」と曽良三々の緊迫した声が聞こえてきていた。
やっぱりこの人でも弟の誘拐はショックなんだな──こんな状況ながら僕はちょっと安心した。隣りで竜也も感涙してる。
『え、竜也いない? あ、ほんとだ。いなかったんだ』
「にいちゃ……?」
説明するのも不憫だが、どうやら弟がいないことに、今ようやく気付いたらしい。
ああ、あの人らしい──。
号泣する竜也がウザいが、僕は心の底からホッとしていたのだった。
『お母さーん、竜也が誘拐されたっぽい』
どうやら自宅にいるらしい。
『何言ってるのよ。そんなことよりあんた、まだご飯中? さっさと食べちゃいなさい』
『ウン。モグモグ』
日常風景が目に浮かぶような会話だ。モグモグ言いながら、電話は唐突に切られた。
刹那、泣き崩れる竜也。トリ先生はグースカ寝てるし。僕は途方に暮れて、とりあえずピンク作務衣の背を擦るのみ。
そのまま夕方を迎えた。
ここは自転車置き場。徐々に人の出入りが増えてきた。自転車を取りに来た通勤通学帰りの人々がチラッとこっち見ては、しかし見ないふりして去っていく。
無理もないか。新聞紙にくるまってグーグー寝ているブルマー女、ベソかいてるピンク作務衣。いたたまれない。何だかいたたまれない光景だ。
でも、考えたら黄色作務衣着てる僕も溶け込んでるんだろうな、この人たちの中に。うわ。悲しいったらない。
「あの、どうします?」
寝ているトリ先生を遠慮がちに突つくと、彼女は「ムゥゥ!」とノビをした。
「ムニャムニャ。確かにワシは魚派かと言えばそうかもしれぬ。しかし国別対抗戦においてはいかなる努力もいとわないつもりじゃ。ムニャ」
寝言ですか? 寝ぼけですか? 何ですか、それは。
「あの、トリ先生?」
「ムニャ。寒い……」
確かに寒いよな。僕は自分が着ていたコートを脱いだ。トリ先生に渡そうとしたところでポンと背を叩かれる。
「君たち……うげッ! き、君たちかっ」
え?
振り返った僕は瞬間的に瞼を閉じた。強烈な光に顔面を直撃され目が眩んだのだ。
光が逸れてやっと分かった。懐中電灯で僕らを照らしているのは警官──しかも自転車のカゴ泥棒で補導された時に世話になった人だった。
こっちもイヤだけど、向こうにしても僕らには2度と会いたくなかったのだろう。
「君たち、ここで何を? いや、自転車置き場に不審者がいるって通報があってね。様子を見にきたんだけど。別に……別に君たちが不審者ってわけじゃないよね。よね?」
チラチラと、特に新聞紙にくるまるブルマーの女神に視線を送りつつ、警官はものすごく辛そうに表情を歪めた。
ああ……多分、僕らに関わるのが嫌で嫌でたまらないんだろうな。1年前の自分がそうだったことを一瞬、懐かしむ思いが。
「……もう戻れないのか、僕は?」
そうやって遠くを見たコンマ数秒の隙に、事態は例によってグダグダのヒドイ方向に流れていった。
「トリちゃん、トリちゃん。警察だよ、起きてッ!」
「ギャギャーーーッ!」
竜也の声に、トリ先生が悲鳴をあげて飛び起きたのだ。
警察、という単語に過剰に反応したに違いない。気の毒な性質だ。
「ギャギャ?」
それだけじゃない。トリ先生、起きたと同時に右手を振り回す。
手に何か持っていた。黒いビン──ソレは字ャっ部の必需品。曽良三々が遂に手に入れた愛用の墨すり機で大量製造した墨汁だ。
それに気付いた僕は瞬間、何かを叫んでいた。
「オゲボッ!」
目を見開いて立ち尽くす警官の前に、この身を翻す。
同時に、ビシャッ──全身に液体かぶった。独特の臭いが立ち込める。
「く、臭ッ!」
庇ってやったのに警官は露骨に鼻をつまんで僕から一歩、身を引いた。
「臭ッ!」
「タローくん、臭ッ!」
関係者みんなが僕から離れる。
墨がほんの少し腐っていたようだ。市販の墨汁には防腐剤が入っているけど、自分で磨ったものはすぐに腐る。腐った墨はたまらなく臭う。
「臭いとか言わないで下さい……」
何故だろう、とても悲しい。
「ス、スマンのぅ、ププッ」
すごく失礼な感じでトリ先生、遠くから僕を覗き込む。片手でビンを振りながら、随分楽しそうな様子だ。そこへ、だ。
『ピルルルル 電話がきたよ 竜也あて──曽良三々』
な、何? 突然の大声──これは副部長の声だ。竜也が平然と携帯を取り出す。まさか今の変なのが着声なのか?
「な、何じゃ? 曽良ちゃんはどこに?」
トモダチがいない為、携帯を持っていないトリ先生が我を失くした。目を大きく見開いてキョロキョロ周囲を見回す。声の主の姿が見えない事に怯えているようだ。
『ピルルルル 電話がきたよ 竜也あて──曽良三々』
「ヒッ!」
再びの怪異現象(?)にトリ先生は情けない悲鳴をあげる。ふらつく足取りで数歩、後ずさった。
「アアア……アアッ!」
足首カックン。
ブルマーの女神は一瞬、体をくねらせたかと思うと派手にその場に尻もちをついた。
「アアアアッ!」
その手から黒の軌跡を描いて腐った墨汁が宙を舞う。自転車置き場の薄暗い電灯の光に反射して、黒の液体がキラキラと輝きを放った。
あ、キレイかも──一瞬見とれたその直後、バッシャン。みんな、腐った墨汁かぶった。僕もかぶった(2回目)。
「……臭ッ」
僕らは顔を見合わせる。たまらなくテンション下がってくのをお互い感じて。
この場合、一番気の毒な立場の警官は臭い雫をポタポタ落としながら「ハァ……」と低い溜め息を吐く。
すごくゆっくりした動作で、側に止めてあった自転車にまたがるとノロノロと走り去って行った。1回もこっちを振り返らない。
そんな彼を見送ってから僕ら3人も、誰ともなく自転車置き場を後にした。
「まるで殿様じゃな……」
トリ先生が言うように通行人は僕らからスッと離れて、結果的に道は僕ら3人の為に空けられることになる。
当然ながら、決して誇らしい気分にはならなかった。
学校に戻っても臭い殿様気分は同じだった。
「臭ッ!」
「何コイツら、臭ッ!」
またアイツらだ」
遠くからひそひそ声が聞こえる。まだ居残っていた生徒ら、みんな僕らを避けていった。
僕らは無言で、ボトボト墨汁を垂らしながら行き着いた先は書道室──ああ、帰ってきた。不本意ながらホッとする。そこが僕たちの終の棲家。
そろそろと遠慮がちにドアを開けて、僕らは目立たないようにコソコソ入っていった。何だか後ろめたくて、堂々と席には着けなかったのだ。
この時間だ。誰もいないと思っていた部室には煌々と明かりが点いている。
何だか不気味な感じだと思った瞬間、奥から黒い影がユラリと現れた。黒作務衣──曽良三々だ。
「兄ちゃッ……!」
竜也の怯えた声。コイツでも兄に対して恐怖を感じることがあるんだなと、僕は変に感心した。
「あの、違うんだ。兄ちゃん……竜也のせいじゃないよ。コイツがっ……」
竜也の奴、僕の背を押してズイッと前に突き出した。汚い。狂言誘拐の責任を人に押し付けようとしている。
「いやいや、悪いのはワシなんじゃ」
トリ先生が何故だかしゃしゃり出てきた。
「いや、悪いのはあんたの弟なんです。僕らは巻き込まれただけで……」
「な、何言ってんの。タローくん、汚っ」
「汚いのはどっちだよ」
どこまでも醜く罵り合っているのは、曽良三々の手にしっかり握られているロープに気付いたからだ。
何アレ?
何かを吊るす為にあるモノ?
何かって何? まさか人?
「だ、だから兄ちゃんの愛情を確かめるとか言って竜也が……」
「な、何言ってるの。そもそもタローくんが……」
「いや、ワシなのじゃ!」
ああ、一言も言葉を発せずじーっとこっちを見てる曽良三々がとてつもなく恐ろしい。
「この黄色作務衣がッ!」
理不尽な罵りと共に竜也が僕の胸倉をつかんだ──その瞬間だ。
黒作務衣が「ガーッ!」と吠えた。次いでクビに衝撃。一瞬、意識が遠のくほどの。
僕ら3人は曽良三々に抱えられて書道室から外へと引きずり出される。黒作務衣はそのままの体勢で階段を駆け上がった。行き着く先は──屋上だ。
「たすけてっ……!」
すごく手際がいい。無言のまま、曽良三々は僕ら3人をまとめて縛り上げた。
「落とさないで。助けてっ!」
「副部長、やめて下さいっ!」
「ワシは覚悟はできておる。甘んじて受け……ホゲゲッ!」
絶叫空しく、僕らは屋上からまとめてポイッと投げられた。
一瞬の無重力。
空が反転し、地面と遠くの景色がグルグル回る。全身を打つ風圧で、竜也が失神したのが分かった。
僕とトリ先生は気を失うこともできず、ボケーっと為すがままだ。
ああ、地面までのその一瞬の長いこと。
※
地面スレスレで足首に激痛。ロープの長さいっぱいで今度は逆方向に揺り戻される。
「ギャッ!」
その瞬間にトリ先生が白目剥いた。ようやく意識を手放す事に成功したみたい。
僕はいつまで経っても失神できず、逆さ吊られてプラプラ揺れている。
ほぼ目の高さにある逆さの地面で、部活帰りの生徒たちがチラチラこっち見てるのが分かった。
……1年間、何とか潜り抜けてきたというのに、最後の最後で吊るされるとは。これで字ャっ部全員が、一通り吊るされたわけだな。
そんなことを思いながら、僕は空を見た。