卒業後、曽良三々は旅立った。
小さな手提げに愛用の墨すり器と書道道具を入れて。
小さな手提げに愛用の墨すり器と書道道具を入れて。
「バチカンに行く」
いまいちワケの分からないことを言って。
どうやら日本の書を広めに行く決意らしい。確かにこの人、大学に進学するより存分に書道を極めた方がいいように思う。
「いってらっしゃーい、曽良ちゃん」
「いって……行ってらっさ……兄ちゃっ、うぐっ」
駅のホーム。涙ながらに見送る僕ら(いや、僕には涙はないんだけど)を振り返りもせずに、軽っい感じで彼は空港行きの電車に飛び乗った。
一瞬、僕の方を横目で見る。
「あ……」
ガチッと目が合った僕は、何か言おうと口を開きかけた。しかし、言葉にならない。
この一年間の辛く、楽しく、たくましい日々が胸いっぱいに溢れ出す。
「ふ、副部長……」
堪えていた涙。一気に溢れ出した僕に向かって曽良三々が一言。
「バチカンって何語?」
「は?」
「バチカンって何語喋る?」
「………………えっと」
公用語はラテン語だよな? でも日常会話はイタリア語だろ?
「まさか言葉も知らずに? て言うか、何語を喋る場所かも分からず一人で行くつもりで? いや、ある意味副部長らしいですけど」
ダメだよ、この旅。この人、きっとすぐに帰ってくるよ。
一瞬シラッとした僕に向かって曽良三々、笑顔で叫んで手を振った。
「ボンジョルノーっ!」
多分ソレ、この人が知ってる唯一のイタリア語だ。
「ぼんじょるの!」
「ぼんじょるのーっ!」
トリ先生が繰り返し、水口楓と鴨、竜也も叫んだ。
ちょっと異様なボンジョルノの嵐にホームのアナウンスが重なり、唐突に電車のドアが閉まる。
「副部長っ……!」
電車はゆっくり動き出し、黒作務衣姿はすぐに僕らの視界から消えてしまう。
「兄ちゃ……っ」涙を流しながら竜也が不吉なことを言った。「アレ? うちの兄ちゃん、パスポート持ってたっけ」
ああ、ダメだ。思ったよりずっと早く戻ってきそうだ。ヘタすりゃ2、3時間の空港までのお出かけだ。
※
曽良三々が旅立った(?)僅か10分後、今度は鴨はじめとの別れが訪れた。
奴はトレードマークの赤作務衣を脱ぎ捨てる。往来で。
「ちょっ、鴨先輩? 何を……」
中に来ていたのは赤タイツ。タイツっていうか、アレだ。つまり、真っ赤な全身タイツ。
「気持ち悪いのぅ」
トリ先生が露骨に顔をしかめ、鴨はいきなり出鼻をくじかれて傷付いたようだった。
「お、俺様はダンスで世界を目指す…つもりで、いたんだ…けど……」
決意を述べている間に急速に自信喪失してるらしい。赤タイツは気の毒くらいカタカタ震えながらもトリ先生に向かった。
「す、好きだ。一緒に来てくれッ!」
強烈なこと言ったのに「イヤじゃよ~」とあっさりかわされ、カタカタは更に小刻みになっていく。
「お、俺様はダンスで……」
すっかり可哀相な赤タイツマンだ。フラフラな感じで一人、旅立った。
それからしばらくして、例の駅前広場に変態赤タイツが出没するという噂が広まった。
クネクネ踊りながら追いかけてくると言う。
広場に人通りは絶え、町は徐々にさびれていく感じ。
※
4月になり、僕と竜也は2年生になった。
色々あったけど、無事に2年生になれた。そりゃそうだ。エリートがダブってたまるかと胸を撫で下ろすと、随分ハードルの低いエリートなんだねと竜也に不気味に笑われた。
そんな春休みの最後の日──書道室はとても静かだ。トリ先生と僕らは『赤タイツの逆襲』という課題を熱心に練習し、互いに批評をし合っていた。
「ああ、これが本来の書道部の形だ。清々しい」
僕はちょっと感動していた。
「ハネの微妙なラインにもっと味が出ればいいのぅ」
トリ先生の教えに竜也が「ウフフフ……フフッ」と不気味笑顔を返す。
「全体的に見て文字がナナメに流れていく感じが面白いのぅ。これも味じゃのう」
「ウフフフフッ」
うわぁ、まったく噛み合ってないし。何このメンバー。
この3人であと1年──てか、卒業までの2年間やっていくのって相当キツイかも。
早いとこ新入生を騙し……いや、勧誘してメンバーを増やさないと。人数揃わないとそもそも部として成り立たないわけだし。
色々考えながら課題書・赤タイツの逆、まで書いたその時。
唐突に書道室の扉が開いた。反射的に全員がそちらを向く。
「おや、お揃いで」
しらっとした顔で入ってきたのは緑作務衣──水口楓だった。
「水口先輩、遊びに来てくれたんですか」
「ハァ……ハハハ」
サラッサラの髪をかきむしる。どうも様子がおかしい。
「水口先輩、大学は?」
「ハハハ……」
乾いた笑い声。マサカ──。
僕はトリ先生の方を向いた。しかし彼女がそっぽを向いているので、今度は竜也の顔を見た。でもダメだ。奴も虚ろな感じで宙を見てる。アイコンタクト取ることも叶わない、このメンバー。
視線をグルリとさまよわせて結局緑作務衣の方へと戻ってくると、彼は墨の匂いを嗅いでいた。
「やっぱり落ち着きますね、この香り」
気持ちは分かるが、フガフガ鼻を鳴らして嗅がなくても。
「あの、大学は……?」
嫌な予感を振り払いたくて、僕は声を張り上げる。
水口楓、ビクッとしたように動きを止めた。グルリと体ごとこっちに向き直る。
「大学なんて夢の夢です。またダブりました。3回目の3年生です。ボクはもうすぐハタチになります」
「うそっ……!」
声も出ない。この人、賢いんだと思ってたのに。
「やっぱり今年もそうだったんじゃな」
トリ先生がしたり顔で肩を竦める。
「勉強が分からないだけです。ボクの人間性は変わりません」
堂々とそんなこと言ってるし。
「何それ、じゃあ今年はこの4人でやってくの? むしろツライ気がするんだけど」
曽良三々と鴨がいた方がまだ潤滑油になるってもんだ。
字ャっ部のトラブルメーカーの再来に、僕はガックリと力を失った。その場に倒れ込み、ベチャ。墨で尻を汚してしまう。
「そのお尻はッ!」
「ああ、まるで!」
「ブフフフフッ!」
……みんなの言いたいことは分かる。僕は尻からポタポタ墨汁を垂らしながら立ち上がった。
ああ、別の何かを垂らしているみたいだ。恥ずかしくてたまらない。しかしその瞬間、僕の中で何かが弾けた。
「エイッ!」
近くにあった紙に尻から滑り込む。ギュイギュイ。尻を動かした。
「おおおぅ!」
何だか見事な書が、尻で書けた。字ャっ部の『部』という字に、周囲の三人が息を呑むのが分かる。
「何だ、この展開……」
竜也が一瞬だけ我に返ったようにポソッと呟いた。
しかし僕は気にしない。何だか目の前がグルグルしだす。そして尻がヒリヒリするんだ。同時に例えようのない高揚感。
「う、うーん……」
新たな芸術が誕生した興奮で、僕はその場に失神した。夢の中で、みんなの笑い声が響いている。
チラッと薄目を開けると、3人が手をつないで僕の周りをグルグル回っていた。怖っ!
「新しい芸術!」
「新しい書道!」
「バンザーイ!」
ぐるぐるぐるぐる回ってる。ああ、見たくない。でもこれが僕の芸術なんだ。
目を閉じても気配で分かる。みんなが尻に墨を塗って、次々と紙にダイブするその様が。
字ャっ部は新たな局面に移行した、っぽい。
『HEY!字ャっ部 』完