「ククッ……クッ」
自然に笑みがこぼれる。
「クククッ……フハハハッ!」
何、この開放感? あの独特の3年生3人が居ないだけで書道室、こんなに広く感じる。
僕は少し浮かれていた。すぅ……。大きく息を吸い込む。ああ、空気がおいしい。何というか、邪気がない。
体育祭が終わったのはつい先日のこと。
そして3年は修学旅行に出発した。何でこの時期の3年生を旅に連れて行くかなぁ。うち、大学の付属でも何でもないのに。内部進学なんて恵まれた制度もないのにな。みんな、受験しなきゃいけないのに。
再来年、自分がそんな目に合うと思うと少々複雑な気分だが。でも今はこのゆったり感を心から楽しもう。
ともあれ、良かったと思う。心からホッとしている。この流れだと僕、3年の修学旅行に否応なく付いて行かされやしないかと恐れていたからだ。
曽良三々、水口楓、鴨はじめの3人は3年1組で、班も同じらしい。別に奴らが仲良し3人組ってわけじゃなくて、むしろ他の生徒が奴らと一緒になるのを拒んだ故の結果だろう。
ああ、目に浮かぶようだ。あの3人きっと今頃、滑稽な旅してるに違
いない。巻き込まれてたまるか!
あの人たちは結局、信州に行ったらしい。水口楓の希望の地だが、彼が心から喜んで旅立ったかどうかは知らない。例の吊るされ事件のショックから最近、軽く不登校気味だったからな、あの人。
「どうでもいいか。ふぁ……」
欠伸をかみ殺す。眠い。何せ今日は5時半起きだ。
修学旅行に出発する3年を部全員で見送ったのだ。何、この体育会系並みの結束力は?
僕は勿論、見送る気なんて全くなかったのだが、夕べ遅く竜也が泣きながら電話をしてきたから。番号を教えた覚えはないのに、奴からはよく電話がかかってくる。
『に、兄ちゃんが旅立っちゃう。遠くに行っちゃう。3日も会えない…………竜也、召されちゃう!』
『召さ……何言ってんだ。しっかりしろよ、竜也』
『竜也と一緒に……』
『や、やめてくれ……』
しくしく泣くものだから慰めているうちに早朝に集合して奴らを見送ることになってしまったのだ。
「兄ちゃんと別れてもう3時間……竜也、遂に召されちゃうよ」
曽良弟が、ものの数時間で頬をこけさせている。目がくぼんで、ひどく充血してる。僕は敢えてそんな彼を見ないように向こうをむいた。だって、慰めようもない。この自由を、僕は満喫したいんだ!
そう、開放感──なのに何だろう、この感じ。このモヤモヤ。
残ったのは3人。僕とトリ先生、そして竜也。トリ先生と2人きりなら幸せだし、竜也と二人でも、うざいものの気楽だ。でも揃うとこの面々、すごくやりにくい感じが。
「まぁ、3日間だもんな。別に何があるってわけじゃないし」
あらためて部室を見渡して、僕はギョッとした。トリ先生がものすごく笑ってる。
声を出さず、しかし口をパカッと開けて。相当すごい笑顔だ。何がそんなに楽しいのかと目を凝らして、更にゾッとする。彼女の手元にある──て言うか居る薄茶色のソレ。
「チュチュチュッ!」
甲高い鳴き声──ネズミ?
トリ先生の6本目の指に子ネズミがちょんと乗っている。頭では分かっちゃいるものの、それはかなり変な光景だ。カミングアウトして以来、トリ先生は時々手袋を外すようになっていた。「蒸れて蒸れて」とか言って。
そうでしょうとも。そんなゴツ系手袋してたら蒸れるでしょうとも。外すのが賢明です。でも、夏はもう過ぎましたけどね。
「意外とカワイイのじゃ。ワシの新しいトモダチ。小さなトモダチ」
ニコニコしながらそんなこと言ってるトリ先生。遂に人外にまで手を広げたか? 酷暑を過ぎて、そろそろネズミが活動を始める時期らしい。
「どうかしたか?」
トリ先生の訝しげな声にハッとした。ショックのあまり、しばらく現実から目を逸らしてたみたいだ。ネズミと戯れるトリ先生をカワイイと思ってる自分──いや、ダメじゃん!
「びょ、病気になりますよ!」
「びょうき?」
「ほら、有名でしょうが。黒死病ですよ。14世紀ヨーロッパで人口を激減させた伝染病・ペストはネズミが媒介したっていう。教科書に載ってるでしょう。尤も当時流行ったのは実はペストではなくて、ウイルス出血熱だったっていうのが最近の見解ですがね。そうするとネズミが原因というのではなく、衛生面で問題があったというのが妥当な解釈かと」
ああ、我ながら言う事が文系男子っぽくて嫌だ。
「ペスト? ウイルス?」
「トリ先生?」
「ソレって、オイシイか?」
お約束の答えをしないで下さい。
「まぁ、良いじゃろう」
きっと何も聞いてはいないのだろう。トリ先生がチラッとこっちを見た。
「人間のトモダチいない者同士、がんばろうな」
いいタイミングでネズミが「チュ」と鳴いた。
「いや、僕には友達いますし。そこは一緒にしないで下さいよ。ほら、宮野とか島田とか。中学の時からの友達で……」
「!」
トリ先生、すごいジットリした目でこっち見た。うわ。居心地悪い。
何はともあれ静かな時間。ネズミがチョロチョロする度にいちいち肝を冷やすものの、僕はゆっくり流れるトリ先生との(竜也もいたけど)時間を楽しんでいた。
しかし例によって、静けさは唐突に破られる。
「さすがにマズイよ、宮野さん!」
「うるさい! バチを当ててやったんだ!」
「駄目だよ。悪質すぎるよ。せめて原田くんに一言……」
「勝手にしろ! 原田だって同罪だよ」
ひぃ! 勝手に人の名前を出さないで下さい。
「オマエのトモダチが近付いてきてるぞ」
決して嫌味じゃない筈だ。しかしトリ先生のツッコミがズシリとボディに響く。
そう、我が物顔で書道室に入って来たのは字ャっ部にとって部外者である筈の宮野と島田だ。
宮野は怒りも露に物凄い形相で僕を睨み付け、島田は今にも泣き出しそうに顔を歪めていた。
「復讐だ! あたしは……!」
「でも、ネズミ!」
「鞄だって!」
「それで、ネズミ!」
2人が自分の言いたいことだけ叫びまくる。随所に聞こえてくるネズミという単語が妙に気に掛かるし。
「ど、どうかしたか?」
聞きたくはなかったけど、仕方ない。
「宮野さんが!」
「当然だろっ!」
「だから、ネズミっ!」
「だから、当然だろって!」
いや、まったく話が見えないんですけど。
「宮野さん! そもそもオレたち、付き合ってんだろ」
「島田……。だ、大体お前、付き合ってなんて一言も言わなかったじゃないか!」
「そんなこと、いちいち言わなくたって分かるだろ!」
「分かんないよっ!」
何、コレ? 痴話ゲンカか?
僕らはじーっと彼らを見守るだけ。我ながら、ヤな目つきしてると思ったよ。
しばらく聞き流してから、不意に我に返ったらしい竜也が大袈裟な手振りでサラリと髪をかき上げる。
「ケンカなら、余所でおやり下さい──なんて」
水口楓の真似か?
「似てる……ッ!」
トリ先生が唸る。誉められて竜也、嬉しそうだ。
「ククッ。ケンカは余所でおやり下さい」
サラリ。もう1回、同じこと言った。
「………………」
2回目は誰も笑わない。
「あ、今の、水口先輩のマネだけど?」
己で説明するな。悲しいだろうが。
シン……。気まずく静まった僕らの中で、唯一違う反応を示した人物が。
「みずぐ……ち……?」
自称『字ャっ部の貴公子』の話題に、宮野が分かりやすくポッと頬を染めた。
「宮野? ま、まさか水口楓を?」
やめてくれ。勘弁してくれ。あの緑作務衣は病気だぞ? 何か色んな種類の病を抱えてるぞ?
「あぁぁぁぁーーーッ!」
今度は突然、島田が泣き出す。
「水口楓かッ! 何で水口楓がいいんだよ。どこがいいんだよッ!」
あ、ソレ、僕も知りたい。知りたいと思うと同時に、どうでもいいとも思うけど。
そんなこっちの思惑とは別に、宮野は今まで見たことない潤んだ目でポワンと宙を見つめた。
「あれは体育祭の前の日だった……」
「はぁ……」
島田以外の皆は適当に返事してる。
「あたし、部活の練習で遅くなったんだ。急いで学校出たところで水口様とぶつかって……」
「はぁ……」
水口様だって? 気持ち悪っ。
「そしたら水口様、あたしにこう言ってくれたんだ」
「女性がこんな時間にお1人で歩くのは危険です。ボクがお送りしましょうって!」
「はぁ……」
宮野、その時の感動を思い出したのか何かプルプルしてる。
「そして家まで送ってくれたんだ。ずっと天気の話しながら」
英国紳士かよ、水口楓!
「水口様はあたしを、女性だからって言ったんだ! 女性だからって!」
2回言った。女性だからってところが宮野的には相当の高ポイントだったらしい。日頃結構クールな彼女がこのザマだ。
「一緒に体育館出た島田は、じゃあねとか言ってすぐに帰って行ったけどな」
「あ……」
ジロリと睨まれ、島田は身を縮めた。
「だ、だって、宮野の方が逞しいし。オレよりずっと凛々しいし」
言わなくていい言い訳してるし。
「この中の誰が水口様のような気遣いを見せてくれるんだ?」
ああ、そうか。女性に接する時ってそういう所が重要なんだな。僕、トリ先生を送ったことない。そういやトリ先生ってどこに住んでるんだろ?
「ホラ! みんな、ボーッとしだしたじゃないか。あたしの話なんてキレイに聞き流してんだろ。そりゃお前らモテないよッ!」
致命的なダメ出しされた。僕も竜也も島田も、そして何故かトリ先生も一緒にうなだれる。僕達全員──そうだな、多分モテたことない。
「に、兄ちゃんなら……」
今度は竜也の逆襲。
「兄ちゃんは女子にだってモテモテだッ!」
そこでなぜか島田の表情が引き攣り、宮野がカッと目を見開いた。
「アイツ……曽良三々、許さん。水口様を吊るすなんて……あの黒作務衣、許せないんだよッ!」
ギャーッと吠える。
瞬間、僕は例えようもない嫌な予感に打たれたのだ。
「……ネズミって、何?」
「え?」
「ほら、廊下で2人で喚いてただろ。ネズミがどうとか」
宮野と島田、ゆっくり顔を見合わせる。宮野のこめかみが引き攣って、ビクッと青筋が立った。ちょっと目が泳いでいる。
そういやこの2人、朝早くから来て3年の荷物のバスへの積み込みを自主的に手伝ってたっけ。異様な無言で。てっきり陸上部の先輩の見送りに来てんだとばかり思ってたけど?
「ネ、ネズミ?」
高まる不安。突然だった。宮野がその場に座り込んだのだ。
「ウフ。ウフフフフ……」
ポケッとしたまま虚ろに虚空を見てる。
「ウフ。あたし最近、島田やこいつらとばかりツルんでて、女子の友達いないみたいだろ。フフフ」
いや、居るんだよ! 居るんだけど、と彼女は繰り返した。そしてまた虚ろに戻る。
「フフ。中学の時は女子10人くらいでいつも一緒だったな。仲良しグループってやつ。ウフフ……」
ああ、知ってる。同じ中学だったからな。ちょっとうるさくも、楽しそうな集団だった。
「あの頃のこと……あたし、最近思い出せなくなってきて。フフフ……」
「宮野? しっかりしろ!」
助けを求めるように島田を見ると、奴は静かに首を振った。
「だからネズミ………………」
「え? 何だよ……」
「あいつの……あの黒作務衣の鞄にあたし、生きたネズミを入れたんだ。驚けって思って。悪質な嫌がらせのつもりで」
「うわぁ」
確かに悪質だ。黙々と荷物を運びながら宮野は右手に鞄を、左手にネズミを握り締めていたんだな。
「う、うちの兄ちゃんの鞄に、まさかネズミを入れたなんてっ!」
すごい説明的なセリフを吐いて、竜也が卒倒した。
トリ先生が竜也の足をつかんでズルズルと部室の外に引きずり出す(何で?)。
遠い信州で、大変な事態が進行しつつある……。
その事は僕にも分かった。
いや、曽良三々のことだ。己の鞄からネズミが溢れ出ようが、全く気にせずうんPチョコを食べ続けるかもしれないけど。いや、分からん。あの人は分からん。
【10月・後編につづく】